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エッセイ:本当の言葉

 先日参加したオンラインの集まりで、同席した若い子が言葉を探して黙りこくる場面があった。頭の中で、言葉を探しているのだろう。じっと考え込んだかと思うと、目をさまよわせながら髪をかきあげ、首を捻る。ようやく出てきた言葉は断片的で、文末までセンテンスが終わりきらないうちにまた沈黙が訪れる。その様子を見て、ああ、言語化するのはこんなに難しいことだったのだ、と半分新鮮で、そして、半分懐かしかった。思えば、いつから私はこんなに流暢に話すようになったのだろうか。(震災後だ。)

 話すことが苦手だった。読むことも苦手だった。「苦手」というよりも、おそろしかった。それは、中学校に入る頃に始まった。ぴたりと本が読めなくなった。それまでは、言葉通り、時間があれば本を読んでいた。時間がなくても、通学時の行き帰りの道でも、学校の休憩時間でも、布団の中でも、いつも本を読んでいた。それが、突然読めなくなった。理由はわからない。

 中学校のグループ学習のときに、夏目漱石について調べてまとめて発表することになった。図書室に行って、漱石についての資料を調べてまとめるだけの、難しくもない課題だ。小学校の頃の私だったら、楽しみながら難なくまとめただろう。ところが、図書室に入って書棚の前に立った時に、途方に暮れた。本を選んで手に取ることがことが怖いのだ。ページを広げるのも怖い。文字は読めるし、内容もわかるし、理解もできる。けれど、それをどう扱えばいいのかわからない。頭の中で情報をどう処理すればいいかわからない。必要な箇所を抽出することもできるけれど、それを理解して頭の中に入れる段になると、なぜか拒否感が込み上げてくる。読めば読むほど混乱してくるので、まとまった量を連続して読むこともできない。焦りながら、当該部分を断片的に拾い読みして、内容を切り貼りして、なんとか要約はでっち上げた。それ以来、図書室には足を運ばなかった。

 軽い文章であれば読めた。氷室冴子の小説をでている限りほとんど全て読んだのは、この時期だ。小学校の頃、私は、学校の図書室の本を全て読破してやろうと思っていたくらいで、小説や物語に類する本は、同世代のほとんど誰にも負けないくらい読んでいた、と思う。当時は、ノン・フィクション系には興味が向かず、もっぱらフィクションの世界に入り込んでいた。順調に「文学少女」の道を歩んでいたならば、その後も世界文学や名作と呼ばれる様々な小説をどんどん読んでいったのだろうけれど、そうはならなかった。「文学少女」としての私の人生は、小学校卒業と同時に終わってしまった。

 本が読めない状態は、大学に入っても続いていた。私が入学した学部は、比較文化学類という文学部に近い学部だった。本が読めなければ、課題もできないし、授業にもついていけない。授業で必要な書籍は購入したし、課題前には最低限必要な部分だけは読んで、なんとか単位が取れる程度にはこなしたが、書籍を開いて文字列を眺めているだけで一苦労で、書籍を手に取ることだけでも恐怖心を持つことには変わりがなかった。

 なぜここまで本を読めなくなったのか。考えてみると、中学に入る頃に、ひとつの強迫観念にとりつかれたことが理由であるようにも思える。それは、書籍に書いてある文字を一言一句正確に理解し、本文の内容も隅から隅まで把握し、記憶しなければならない、というものだった。まるで神学校での聖書読解か、コーラン暗唱のようだ。きっかけが何かあった記憶はない。私は本が好きで、本の中には無限の世界があると思っていたから、好きすぎて、もっともっと本をよく読めるようになりたいと思ったのかもしれない。

 最初は、本が読めないだけだったのだけれど、そのうち、話す方も難しくなってきた。物理的に支障が出たわけではないし、日常会話は差し支えなかった。冗談も飛ばしたし、雑談も普通にしていた。ただ、何を話しても、何か違う、きちんと自分の話したいことを話せていないという感覚を持つようになっていた。話しても、話したあとに落ち込んでしまうから、なるべく話さないようにしていた。周囲に合わせてそつなく振る舞うことはできたので、気づいている人は誰もいなかったのではないかと思う。このことを自分から誰かに話すこともなかった。

 大学も3年くらいになってくると、いいかげん、拾い読みだけで授業について行くのは厳しくなってくる。卒業論文を書くのにだって書籍は読まなくてはならない。同級生には本の虫もたくさんいて、皆、難しい内容の本をスラスラ読んでいる。私には、全く別世界の能力を持つ人であるように思えた。

 この状況が変わったのは、なんのきっかけかわからないけれど、丸山圭三郎のソシュールの記号論にかんする本を手に取ったことだった。そこには、言語(記号)は、意味するもの(シニフィアン)、意味されるもの(シニフィエ)にわかれ、両者の結びつきは恣意的なものである、と書かれていた。その説明は、私にとっては、天啓のようだった。意味するものをそのまま正確に100%トレースするように頭に思い浮かべて理解しなくてはならない、私を捉えて離さなかった強迫神経症からその言葉は解放してくれるように思えた。記号の表意と表記の関係の恣意性は、自分の解釈のぶれを当然のものとしてゆるしてくれる。

 とは言っても、これだけで長年の強迫観念から簡単に解放されたわけではなく、本を読むことは、変わらず難儀な作業だった。前はページをめくるのさえ恐怖であったのが、開いてみる気にはなった。そういうレベルの話だ。詩歌や古典を読むことを好んできたのは、詩歌は内容を感覚的に把握できるし、古典は「読解」が必要であるから、かもしれない。読解という回路で迂回をすれば、本文を読んでそのままきれいに理解しなくてはならないという強迫観念を多少回避することができる。結局、この強迫観念から解放されたのは、ここ数年のことかもしれない。今では、本を開くことに恐怖心を感じることはほとんどなくなったが、それでも開く前に「理解できなかったらどうしよう」とのためらいを覚えることはある。

 そうこうしているうちに、人前で話す機会も増え、いつの間にやら立て板に水のように喋るようになってしまった。自分が調子よく喋るようになったものの、流麗に話される言葉はあまり好きではない。言葉は、思ってもいなくても、わかってもいなくても、まるで、そうであるかのようにいくらでも喋れるものだ。言葉が達者になればなるほど、自分が本当はわかっていなくても、言葉は流れ出てしまうから、自分でもわかっていないのに、わかっているかのように思えてしまうのかもしれない。

 震災からこっち、私は、話し合う場作りにかかわりつづけてきた。理由はいくつもあるし、理屈もいくらでもつけれるのだけれど、根本にあるのは、「本当の言葉」を聞けることが楽しかったのだと思う。原発事故の後の状況は、誰にとっても未知の事態だった。初めての事態に向き合って、何かを話そうとすると、ほとんど全ての人はうまく言えない。自分が何を考えているのか、感じているのかを整理することさえ難しい。考えても考えても混乱するばかりだ。長い沈黙や、言い淀み、訂正や見当違いの言葉が続く。

 ところが、なにかのふとしたきっかけで、言葉の回路がつながる瞬間がある。そうだ、これだったんだ、話しながら表情が変わってくる。目が輝いている。あるいは、言葉にしたあとに、自分自身が驚いた顔をしていたりもする。そうか、そうだったんだな、そうだったんだよな。そう呟いていたりもする。事態を了解するとは、こういうことなんだろう。この時に話された言葉は、「本当の言葉」だ。誰のものでもない、その人自身の言葉。誰にも奪えない。失うこともない。どんな文学作品にも言語芸術の中にも存在しない。こういう言葉の生成の瞬間に立ち会えたのは、私にとって至福の時だった。

 先日、言葉を選んで選んで、それでも話せない若い子の姿を見て、そんなことを思い出した。ずっと考えていれば、いつか、あなたもきっと自分の言葉を見つけられる時がくる。その時に、見つけた言葉を手放さないで。それは、どんな書物にも書かれていない、どんな文学者も詩人も書けない、あなただけの言葉。その言葉は、誰よりも強くきっとあなたを支えてくれるから。

 

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