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献本御礼:『山上徹也と日本の「失われた30年」』

 著者の池田香代子さんから御献本いただきました。

 山上徹也の銃撃によって、カルトの政治への深い侵蝕と宗教2世問題をはじめとするカルト被害の問題が明るみに出ることになりました。一方、多くなされた報道のなかで、山上が就職氷河期のロスジェネ世代であることはあまり強調されていないように見えます。この本はそこに焦点をあてた内容になっています。

 わたし自身、ロスジェネ世代になりますが、山上のことは、おそらく同世代の多くにとっては、あまりに身につまされすぎて話題にしにくい、という感覚なのではないでしょうか。

 ロスジェネのこうむってきた苦難と、この先も続くのであろう苦境について語れば、あまりに重苦しくなり、救いも見通しもないので、触れないことにする。ただ、それはロスジェネに限ったことではなく、上の世代にしてみれば、ある種の気まずさと後ろめたさから、下の世代にしてみれば、理解も共感もできないから、「ロスジェネ」の話はふれないことにしよう。そんな心的メカニズムが働いているような気がします。

 いわゆるマイノリティであったり、弱者と呼ばれる立場の人に、広く人びとの同情や共感が集まるのは、それがマジョリティにとってのなんらかの「期待」に応える場合のみであって、弱者が必ずしもいつも同情を得られるわけではない、というのは冷酷ですが、現実なのだろうとも思います。(これを肯定しているわけではありませんし、ましてや他人ごとと思っているわけでもない、ということは強調しておきます。)

 この本に書かれていることは、ほぼ正しい現状認識で、山上のような人はこの先も出てくるであろうし、彼がやらなかったとしたら、別の誰かが似たようなことをしただろう、というのは、同世代の人間は、肌感覚として感じていることではないかと思います。

 わたしも、意識的にも無意識的にも、山上にはあまり触れたくない、少なくとも会話のなかでは触れないようにしているかもしれません。

 考えれば考えるほど、殺伐とした気分にならざるを得ないなか、プロローグの池田香代子さんの優しさが、身に染みます。目を逸らしたくなる現実を真剣にまっすぐ見つめる眼差しで、山上を称揚するかのような雰囲気の映画上映会の高揚への違和感を表明されていた箇所で、特にそう思いました。

 ときおり思うのは、山上は逮捕・収監されて、14歳からの人生で初めて、明日の住むところ、食べるもの、生活のことを心配しないで過ごすことができているのではないか、ということです。

 その荒涼とした心的風景を想像するとき、それをなんらかの社会の理想実現のための暴力的行為(テロリズム)であるとみなすかのような高揚は、彼の置かれていた乾ききった絶望からはあまりにほど遠いように思えます。山上の行った行為は、自死とほぼ同義であるように私には見えます。ただ、黙って自死をするにしては、彼には気力も知力も体力も若さもあった、それゆえ、より大きな、自分に苦しみをもたらした原因を狙い定め、正確に襲うことにした、違いはそれだけではないでしょうか。

 池田香代子さんは、原発事故のあとからの、今となっては長いお付き合いですが、ずっと優しかった、ということをあらためて思い返しています。
 私たちの福島で暮らす活動は、ICRPという、反原発の一部からは悪の権化とみなされる組織とかかわりをもったこともあって、その方たちからは蛇蝎のごとく嫌われていましたが、池田さんは反原発サイドにいながら、ずっと応援してくれていました。そのことによって、池田さんは反原発のなかで批判され、一方、反・反原発の立場の人からは、反原発サイドとみなされ批判され、どちらからも批判をうけるという難しい立場にあったと理解しています。
 両サイドから攻撃を受けるのは、非常にしんどいものですが、それでも、池田さんは、福島で暮らす人への応援を続けてくださっていました。正直にいうと、なぜそこまで、と不思議に思ったこともあったのですが、この本は、ああ、この優しさと強さが池田さんなんだな、とあらためて感じさせてくれるものでした。
 御献本、ありがとうございました。


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