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ニュース✔︎:東電強制起訴裁判(刑事)高裁判決を見て

 最近はnoteを更新する余裕もあまりなくて、記事をほとんど書いていないのですが、東電経営陣の原発事故に対する刑事責任を問う裁判の交際判決が出されたことについて、感じたことを書きます。
 判決は、「無罪」ということでした。

 先に経営陣の責任を認め十三兆円の賠償を命じたのは、「民事裁判」で、今回は刑事責任を問う刑事裁判です。
 刑事責任の場合は、民事に比べると立証責任がより厳しく、瑕疵が犯罪とまで言いうるか、というところが争点となるので、法律の枠内で、刑事罰を与えるほど、経営陣の責任と事故の発生に明確な因果関係は認められない、とのことだと思います。

 しばしば日常の会話でも、これだけの事故なのに誰も責任を取らないじゃないか、との不満はよく聞かれ、私も心情的には同意します。ただ、この場合の「責任」は、いったいどういうことを指すのか、という点については、必ずしも刑事罰を与えることだけが、責任の取り方ではないと思いますし、むしろ、それは本当に責任をとったことになるのだろうか、とも思います。

 裁判は、民事であれ刑事であれ、現行法の枠組みのなかで裁かれます。これは法治国家として当然ですし、そうあらねばなりません。一方、では、法律がすべての事柄を網羅しうるのか、法律に違反しなければなにをしてもいいのか、と言われれば、それはちがう、と思われる方が多いのではないでしょうか。私もそう思います。
 マナー、道徳、倫理、配慮、ルール、思いやり。私たちの生きている社会は、法律だけではない無形の規範意識や配慮が存在し、それらによって潤滑に社会が動くようになっています。これらを、法律になっていないから、という理由だけですべて無視する人はいないと思います。
 原発事故については、いわゆる「道義的責任」といわれるものですが、これは、法律で裁くにはむしろ向いておらず、別の枠組みによって検証し、また対処していく必要があるべきことではないかと感じています。

 というのは、事故から12年もの間、折にふれ、福島県の被災地では直接・間接に東京電力とかかわる羽目になったわけですが、東京電力という組織のことを知れば知るほど、実に「日本的」な組織だと感じるからです。
 東電の特殊性と言われるものは、日本の組織の悪い意味での特殊性を煎じ詰めた結果の、戯画化されているといえるくらいに濃縮されたものである、とさえ思います。
 事なかれ主義、縦割り主義、下から上に物を言いにくい風通しの悪さ、エリート主義、同調圧力の集団主義、異論を排除する独善性、意思決定の不透明さ、誰も責任を取らないシステム…、こうした東電にみられる特徴は、すべての日本の組織に共通するもので、なにひとつ東電だけの特徴ではありません。

 あまりに日本的な組織の特徴を煎じ詰めた結果、原発事故が起きたのだとしたら、経営陣の個人責任を問うたところで、事態はほんとうに改善するのでしょうか。むしろ、責任を外化(悪いのはあいつで自分ではない)することによって、本来、改善すべき点から目を逸らし続けることを可能にするだけなのではないか、という気がします。
 こうした観点から作成されたのが、国会の事故調査報告書であったのだと思いますが、その結果が生かされているようには見えません。私としては、今回の刑事責任の無罪判決よりも、むしろ、事故調査報告書が顧みられていないことの方がいっそう問題だと感じています。事故から12年、確かに日本社会は良い方に変わったのだ、と言える人が、どれくらいいるでしょうか。

https://www.mhmjapan.com/content/files/00001736/naiic_honpen2_0.pdf

 社会心理学的に、人間の認知システムとして、構造的な問題には気づきにくく、わかりやすい個人的な意図や性格に責任を求める傾向が強いのだそうです。「市民感情」といわれますが、要するに、人間の認知システムがそのようになっているのだろうと思います。ただ、複雑化している社会問題に対して、個人の責任を問うても、現実的な改善は難しいのも事実ではないか、と感じます。

 原子力問題では非常にあることですが、もともと対立関係にある推進・反対両サイドが、互いをなじり続け、その結果として敵意と悪意が固着し、より事態を硬直化させ、改善を不可能にしていく、ということは往々にして起こります。

 現実問題として、もともと互いに悪意をもって、そのような行動を起こしているのかと言えば、逆だと思います。推進する側も、反対する側も、むしろ善意に基づいて行動していることの方が多いのではないか、というのが私の実感です。ですから、私のようなどちらにも属さない人間からすると、双方の意見を聞いても、どちらの言い分にも部分的に頷けるところがあります。ただ、強く違和感を感じるのは、あまりに互いが相手の行動に悪意を見出しすぎていることです。

 これまでの過去の経緯があっての上でのことですから、「人類皆兄弟」のようなことが可能であるとは思いませんが、少なくとも、過去の経緯とは無縁である立場の人間としては、悪意や敵意からは距離をおいて、実際に社会をよくしていくにはどうすればいいのかを考え続けたいと思っています。

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