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エッセイ:空が青い

カフェの小さなテーブルに向き合って、私たちはなにかを話していた。いつものように、話すのは彼ばかりで、私は黙って相槌をうつ。なにか尋ねたいことがあるときは、不思議そうな顔をしてみせると、だいたい彼は表情からすぐに察して、さらに詳しく説明してくれる。だから、いっそう喋る必要がなくなってしまう。

ガラス張りの窓際の席からは、パリの街角の景色がよく見える。交差点に面した、名前をいえば誰もが知っている老舗のそのカフェを、思い出深い打ち合わせの時には、彼は決まって使ってきたのだという。楽しそうに、何人かの名前をあげて、「そして、今日あなたと一緒に来た」と満足そうに言った。彼は紅茶、私は、なにを頼んだろう。コーヒーだっただろうか、やっぱり紅茶に、それからパフェを頼んだのかもしれない。

お給仕の係の人の動きは無駄なく、適度なタイミングで空いた食器を片付けた。テーブルが少し広くなって、会話がつかのま途切れた。彼は窓の外の空を見上げて、しばらく黙って眺めた。今日はお天気がいい。石造りの中層建物が立ち並ぶその上に、目に眩しいくらいの青い空が広がってる。彼は、ふっとこちらに向き直り、前にもこの話をしたことがあるかもしれないんだけれど、と、話しはじめた。その表情は、先ほどの時と変わりなく、口調も軽やかだ。彼は、逡巡なく、わかりやすい英語で言葉を重ねていく。ただ、話しはじめる時に、わずかに何かの意を決したような表情をしたようにも見えた。

私はあいかわらず、黙って相槌を打ちながら聞いていた。なぜ、彼はこの話をしているのだろう。私たちは、知り合ってから数年間、それまでももちろん会話はしていたけれど、彼の個人的な話はほとんど聞いたことがなかった。私もしたことはほとんどなかったと思う。記憶に残っているのは、子供はいるのか、と尋ねられ、いない、と答えた、それくらいだ。だから、彼のプライベートな話が出てくるのが意外だったし、ましてや、それを「話したことがあるかもしれない」と前置きをするのが不思議だった。

話は進んだ。彼の話す内容は、口調とは裏腹の内容だった。動揺しているようには見えない、悲しそうにも、苦しそうにも見えない。彼は、明るい表情と口調を崩さず、話を続けた。最後に、あの時の空と同じだ、と言った。「見て、空が青いよ!」 彼は、ひどく悲しい話を、口元からは笑みがこぼれていてもおかしくない調子で話し終えた。その表情のまま口をつぐむと、私の顔を見た。

私は、彼は、私になぜこの話をするのだろう、といぶかしく思うのと、内容に驚いたのと、内容と裏腹の彼の話しぶりと、本当はこの話を私にするのが初めてなのはわかりきっているのに「話したことがあるかもしれないけれど」と前置きした彼の気持ちと、こういうときにどう言えばいいのかわからないのと、ぜんぶが一緒になって、言葉が出なかった。きっと彼はなにかを私に伝えたかったんだ、ということだけはわかった。話の内容ではなく、なにか別のものを。

彼は黙ったまま、私の表情を見つめていた。私の反応を待っている。測っているのではないのは、平静を保っているように見せかけながら、目の奥が半分期待と半分不安とが入り混じって光っていることからわかる。彼は私の反応を待っている。いずれにしても、私に言える言葉はない。彼だって、私からなにか言葉をかけられるのを期待してるわけではないだろう。では、なぜこの話を私にしたのだろう。こんな悲しい話を、こんなに明るい調子で。いろんな思いが入り混じって、表情はほとんど動かさないまま、知らず、涙がこぼれていた。何粒かが頬を伝ったあと、それを指で拭いながら、彼の言葉を鸚鵡返しに繰り返した。「空が青い、ね」

彼は、私が涙を流すのを黙って見ていた。ハンカチを渡すのでもなく、声をかけるのでもなく、泣かせるつもりはなかったんだ、というのでも、手を握るのでもなく、ただ黙って見ていた。その表情は、どこかしら安堵しているようにも見えた。

彼は、私の涙を確認すると、もう一度窓の外を眺めて「空が青いんだ」と繰り返して、今度ははっきりと笑顔を浮かべた。私も同じ空を見て、もう一度「空が青いんだね」と言った。しばらく黙ったあと、彼はそのまま、なにごともなかったかのように普段の会話を続けた。

それから、私たちは何度となく会話をし、メールのやり取りを重ねた。けれど、一度も、この話はしていない。彼が話したくなる時まで言わない方がいいような気がしたから。彼がなにかの時に、また何気なさを装って、「あなたには前には話したけれど」と話のついでに軽く触れただけだ。

ときおり考える。彼は、なぜ私にこの話をしたのだろう。なにを伝えたかったのだろう。いや、答えはわかっている。彼は、ただ話したかっただけなのだ。あの時、「見て、空が青いよ!」という言葉を彼が聞いた時にあふれただろう、どうやっても言葉にできない感情を、どうあっても誰かに伝えることができないとわかっていても、それでも、誰かに伝えたかった、分かち合いたかった。なぜ、それが私だったのかはわからない。彼は、伝えた。私は、受け止めた。そのことに彼はきっと安堵した。

パリの空は、今日も青い。あなたにそそぐ光は、春の気配をふくみ、やわらかだ。街は、もうすぐ花に溢れる。香りあふれる季節が、あなたを抱きしめる。


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