神田たまごけん以前の話①
2020年1月12日
以前、神田たまごけんの歴史シリーズを数回に渡って書いたことがありました。
その連載?が意外と好評だったようなので、今回はそこから更に遡って『神田たまごけん』ができるまでの話を書いていきます。
1980年夏。
私安藤隼人は東京都新宿区で生まれました。
「そこから!?」
と思うかもしれませんが、
たまごけんができる前=私の歴史、ということで軽く読み飛ばして下さいw
安藤家の長男として生まれた私は、池袋と目白の間くらいにある雑司が谷の祖父母の家で育ちました。
よく食べ、丸々と太った子供だったそうです。
その後2歳下の弟が誕生し、祖父母の家が手狭になってきたため、私が5歳の時に両親が埼玉県所沢市に新築マンションを購入して、4人でそこに引っ越しました。
そのマンションに幼稚園から大学生、社会人になるまで家族と住んでいました。
「所沢駅」というと、池袋から西武池袋線で30分くらいで行けるため、埼玉県でも比較的便利な場所ですが、私達が住んでいたのは「下山口駅」という西武池袋線から分かれて西武球場に行く途中にある駅で、1時間に3本くらいしかなく終電も早いローカルな場所でした。
しかし山なので自然が多く、子供の頃は虫採りやザリガニ釣りなど自然遊びが好きな子供でした。
また当時はバブルで、父は大手不動産会社で働いていたため給料が良かったらしく、よく家族で旅行に行っていました。
会社の保養所(会社が社員の福利厚生用に所有している別荘のようなもの)が各地にあったため、そこに泊まることが多かったように思います。
夏は葉山、熱海で海水浴
秋は日光、箱根で観光
冬は群馬、新潟でスキー
といった感じで、連休があれば旅行に行っていました。
海外旅行も何度か行きましたね。
そんな子供時代を過ごしていたため、今でも自然や生き物、旅行が好きなので、両親には感謝しています。
自分の子供にも同じような体験をさせてあげたいと思ってます。
学校生活では、特に目立ったことはなく大人しい学生でした。
地元の小・中学生から、同じ埼玉にある立教高校という男子校に進学し、そのまま池袋にある立教大学(経済学部経営学科)に行って卒業しました。
喘息持ちだったため運動は苦手でしたが、
スポーツは水泳、サッカー、柔道、バレーボールと広く浅くやっていました。
一番ハマったのは中学生の時に始めたスノーボードでした。
その当時はまだ流行り始めの頃で、スキー場に行ってもスノーボーダーはほとんど見かけませんでしたが、そのマイナーでアングラな感じが自分に合ってたのかもしれません。
今思うと、このスノーボードのように「他の人と違うことをやりたがる」性格が、神田たまごけんの創業に結びついたように思います。
続く。。。
(子供の時の写真があったので、載せてみましたw)
※ちなみにアイスランド(国民幸福度世界3位の国)では、一般の国民が自叙伝を出版する習慣があるそうです。
その人の生い立ちを知ると、その人と接しやすくなったりするので、皆さんも気が向いたら話したり書いたりしてみると良いと思います。