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【保存版】知らないと恥ずかしい?! アート界の巨匠 アンディー・ウォーホル

こんにちは。

今回は9月28日(月) 12時からANDARTでオーナー権販売開始予定の20世紀後半を代表する世界的アーティスト「アンディー・ウォーホル」について解説します!

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はじめに

アンディー・ウォーホルは、アメリカの消費社会と大衆文化の時代を背景に、ジャンルを超えたマルチクリエイターとして活躍した20世紀後半を代表するアーティスト。『タイム』誌の”20世紀で最も影響力のあった100人の1人”に選ばれている。「キャンベル・スープ缶」シリーズやマリリン・モンローをはじめとする「スターの肖像」シリーズなど、シルクスクリーンで大量に複製できる絵画を制作し、美術界に大きな衝撃を与えた。(1) 没後30年を経た今も、世界のオークションハウスで高額取引されておりマーケットでも底堅い人気を誇る。(2)

概要

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出典 : https://www.masterworksfineart.com/artists/andy-warhol/biography

出生  1928年生まれ
出身地 アメリカペンシルベニア州ピッツバーグ
学歴  1949年カーネギー工科大学(現カーネギーメロン大学)卒業
所属  レオ・キャステリ・ギャラリー
URL  https://www.warhol.org/

主な活動歴

1949年 ニューヨークでイラストレーションの仕事を始める 

1952年 新聞広告美術の部門でアート・ディレクターズ・クラブ賞を受賞

1962年 ロサンゼルスで「キャンベル・スープ」のシリーズを展示、またマリリン・モンローの肖像などを制作

1963年 最初の映画作品『眠り』を撮影

1965年 フィラデルフィアの現代美術研究所で最初の回顧展を開催

1969年 雑誌『インタヴュー』を創刊

1970年 パサディナ美術館で「アンディ・ウォーホル展」開催、同展はシカゴ・オランダ・パリ・ロンドン・ニューヨークを巡回する

1972年 膨大な数の肖像画を手がけ始める。毛沢東を始め、俳優、音楽家、政治家などのポートレートを制作。

1975年 著書『アンディ・ウォーホルの哲学』出版

1979年 ニューヨークのホイットニー美術館で「70年代のポートレート展」を開催

1980年 著書『ポッピズム:ウォーホルの60年代』共同出版

1984年 古典絵画や名作からのシリーズを制作

1987年 《最後の晩餐》の展覧会オープニングで1月にミラノを訪れるが、翌2月にニューヨークにて胆嚢手術の後永眠する (3)

作品の特徴

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《New England Clam Chowder from Campbell’s Soup II》1969年
Color Screenprint on Lenox Museum Board 88.9×58.4cm
出典 : https://www.masterworksfineart.com/artists/andy-warhol/screen-print/150041/id/w-6838

ウォーホルの作品の中でもとりわけよく知られているのが一連のキャンベル・スープ缶の絵画であろう。1962年夏、ロサンゼルスで開催された芸術家として最初の個展で発表されたものである。ウォーホルはこの年にシルクスクリーンという技法を取り入れ、写真のイメージをそのままカンヴァスに転写できるようになり、機械的に多数の作品を制作することを可能にした

ウォーホルは1950年代に商業アーティストとして成功しながらも、ファイン・アートへの転身を目指していた。当初は漫画を素材にした絵を描くも、同様のテーマでロイ・リキテンスタインがすでに有名になっており挫折。新たなテーマを探す中で、知人の画廊経営者から「スープ缶」というアイデアをもらったのが転機となったという。(4)

「何かしなけりゃいけない・・漫画の絵・・それじゃ遅すぎる。人を面食らわせるようなやつ、リキテンスタインともまったく違ったやつ。(中略)ねえ、君はアイデア一杯じゃないか、一つ、僕に教えてくれないかい。」(Andy Warhol)

「お金か、ほとんど毎日見かけているようなものを見つけてくればいいのよ。毎日見ていて、だれでも知っているもの。そうね、キャンベル・スープの缶のようなものね。」(知人の画廊経営者)
ー岩波 世界の巨匠 ウォーホル、エリック・シェーンズ、岩波書店、1996年 (5)


そしてロサンゼルスでの個展の最終日、マリリン・モンロー死去のニュースを耳にし、ウォーホルは即座に彼女の宣伝写真を元にしたシルクスクリーンでの制作に着手したこれがウォーホルの代表作ともいわれ、この女優のポートレートの一つとしても有名なものとなる。これらのスープ缶やマリリン・モンローの作品を展示した1962年11月のニューヨークでの展示会でウォーホルは作品をほぼ完売し、アーティストとしての名声を手に入れることになる。(6)

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《Marilyn Monroe (Marilyn)》1967年 Color Screenprint on Paper
91.4 cm x 91.4 cm
出典 : https://www.masterworksfineart.com/artists/andy-warhol/screen-print/marilyn-monroe-marilyn-1967-2/id/W-6192

アンディ・ウォーホルを知るためのキーポイント


◆ニューヨークのスタジオ「ファクトリー」での大量生産と華やかな社交

ウォーホルは1963年、ニューヨークの帽子工場だった広大な敷地を制作の拠点にしている。インテリアは隅々まで銀のペンキで塗られ、銀の箔で装飾されていたため、「シルバー・ファクトリー」と呼ばれた。ここで複数のアシスタントを雇い、シルクスクリーンの技法を駆使して大量生産を行なっていた。制作の拠点のみならず、美術関係者・ミュージシャン・俳優などが集まる交流の場としての役割も果たし、様々なパーティーが開かれるなど、ニューヨークのアンダーグラウンド・カルチャー・シーンの拠点となっていった。なお2014年森美術館での「アンディ・ウォーホル展 永遠の15分」にて、この「シルバー・ファクトリー」の空間の一部が原寸大で再現されたことも記憶に新しい。(7)

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出典 : https://www.fashion-headline.com/article/12949/134841


◆没後30年を経ても世界のオークションハウスを賑わせる

ウォーホルの作品は世界のオークションハウスで多数の取引がされており、没後30年経てもなお人気が高い。早くも1970年にはキャンベル・スープ缶の絵がオークションで現存のアメリカ人画家としては最高値を記録。(8) Artprice社発表のオークションデータに基づくアーティストランキングでは、2000年から現在に到るまで常にトップ10にランクインしている。これまでの最高落札価格は2013年の《シルバー・カー・クラッシュ》で、ニューヨークのサザビーズにおいて約$9,400万で落札。直近2019年にも《エルヴィス》が約$4,600万で落札されており、人気は底堅い。(9)


◆大阪万博、CM出演など……日本との関係

ウォーホルは1956年に世界一周の旅に出て、途中日本にも立ち寄っている。このときに京都で「ゲイシャ」のスケッチをしたり、収集癖のある彼は銀行の景品と思しき紙人形から各種クーポンまで持ち帰り、終生保管していた。1970年の大阪万博では立体作品《レイン・マシン》を発表。ひなぎくの花の写真が桝目状に並ぶ壁の前に、巨大な滝の水が流れるというものだ。企業の先端技術と芸術家の美的センスのコラボレーションをテーマに制作された作品だが、ウォーホルは先端技術を自作に使うことに意味を見出せなかったようで、「結局この立体写真はゴージャスでも刺激的でもないね」と語っていたという。(10)

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《Rain Machine》2002年(復刻版)
出典 : http://www.nyartbeat.com/event/2010/B594

1983年にはTDKビデオテープの広告とテレビCMに出演。CMはテレビを小脇に抱えロボットのように片言の日本語(「アカ、ミドォリィ、アオゥ、グンジョウイロゥ…キデイィ(キレイ)」)を話す、というウォーホルのキャラクターを活かしたもので、視聴者に強烈なインパクトを与えた。没後の2005年にはユニクロからアンディ・ウォーホルプリントT(コカコーラ瓶とキャンベル・スープ缶の2柄)が初めて発売され、(11) 現在でもマリリン・モンローやドル記号の柄など多くのグラフィックTシャツが販売されている。(12)

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出典 : https://educacao.uol.com.br/biografias/andy-warhol.htm

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出典 : https://www.uniqlo.com/jp/store/goods/421391-00

村上隆もウォーホルから影響を受けた1人だとされており、「最も影響を受けたアーティストは、ウォーホルだと私は思う。」と語っている。一方で、「ウォーホルの絵を初めて見たとき、何も思わなかった。ただ、頭の中に、ペタッと貼り付いてしまった。」「ウォーホルをわかろうとしてはいけない。」とも述べている。(13)

アンディ・ウォーホルのアート作品について


◆幼少期からカーネギー工科大学まで

ウォーホルは1928年にスロバキア出身の両親の第三子としてペンシルベニア州ピッツバーグに生まれている。小学生から画才を発揮していたといわれ、9歳の頃からカーネギー美術館の土曜のクラスで学んでいた。この頃リウマチ熱という重い病気にかかり、また高校生の頃には父親との(病気による)死別を経験しており、幼少期の病気や死の経験は、後年の作品に影響を及ぼしたといわれている。1945年にカーネギー工科大学に入学して美術デザインを専攻。ドイツのバウハウスの流れを継ぐ高度な教育で、教師であったスイスの画家パウル・クレーからもウォーホルは影響を受けたといわれている。卒業前に公募展に作品を出品したものの、落選という結果に終わった。(14)

◆1950年代:商業イラストレーターとしてデビュー

ウォーホルは大学卒業後ニューヨークに移住。学生時代のポートフォリオを手に仕事を探し、まずは雑誌『Glamour』の連載記事の挿絵の仕事を得た。ここで描いた靴のモチーフは、その後も繰り返し登場し有名になっている。仕事が速いこと、手作りの贈り物(オリジナルのイラストやチラシ)をしていたことなどからアートディレクターの間で人気が出て、仕事が増えて評判も上がった。「アート・ディレクターズ・クラブ賞」など多くのデザイン賞も受賞している。(15) この頃ウォーホルが多用していたのは「ブロッテド・ライン」と呼ばれる技法だ。ペンで紙にイメージを描き、それに別の紙を押し当ててインクを転写する方法で、インクが滲んで独特の線描となるのが特徴的であり彼のトレードマーク的技法となった。その後のシルクスクリーンによる大量生産の原点ともいえる。(16)

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《Golden Shoe(Julie Andrews Shoe)》1956年
foil collage and ink on paper 33×58.4cm

出典 : https://www.christies.com/lotfinder/drawings-watercolors/andy-warhol-golden-shoe-5871435-details.aspx?from=searchresults&intObjectID=5871435&sid=742d7c85-fc24-4c95-a1d4-b75e2c737a69


◆1960年代:ポップ・アーティストとしての成功と、幅広い表現の模索

1962年にキャンベル・スープ缶やマリリン・モンローの絵画で名声を手に入れ、ウォーホルは続けてエリザベス・テイラーやエルヴィス・プレスリーなどスターの肖像画を多数制作した。一方で、1963年以降には死や惨事を暗示するテーマでも多数制作している。自殺、自動車事故、電気椅子、原子爆弾、ケネディ大統領の葬儀直後のジャクリーヌ・ケネディのシリーズなどだ。(17)

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《Jacqueline Kennedy II》1966年
Screenprint in colors, on wove paper, the full sheet 60.6 x 75.9cm

出典 : https://www.phillips.com/detail/andy-warhol/NY030108/77
「自分がしていることは何もかも死に他ならなかったのだと気が付いた。(中略)陰惨な絵をなんども繰り返し見ていると何も感じなくなる。僕の死のシリーズは2つに分けられる。有名な死を扱ったものと、無名な人びとのーでもいつか考えたことのあるはずのー死を扱ったもの。(中略)名も知れぬ人が殺されたからといって誰も気にしていない。だから僕はこうした無名の人びとのことは記憶されたほうがいいと思ったのだ。(18)」
ー岩波 世界の巨匠 ウォーホル、エリック・シェーンズ、岩波書店、1996年


1964年にはキュレーターのアドバイスもあり、大衆受けが見込める花のシリーズを多数制作。ニューヨークの個展で販売されたこれらの作品は完売した。(19)

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《Flowers 64, from Flowers Portfolio, 1970》1970年
Color Screenprint on Lenox Museum Board 91.4x 91.4cm

出典 : https://www.phillips.com/detail/andy-warhol/NY030108/77


1965年末になると、ウォーホルはアイデアを使い果たしたように感じていたという。画商にアドバイスを求め、「いま、誰も扱わないのは田園的なものかな・・好きなものは牛だけど」との言葉に従い、1966年の個展では壁面を埋め尽くす牛のインスタレーションが制作された。(20)

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《Cow》1966年 Screenprint in colors, on wallpaper, the full sheet
114.3 x 76.2 cm
出典 : https://www.phillips.com/detail/andy-warhol/NY030111/149

このようにアイデアの枯渇を感じていたウォーホルは、この頃「画家廃業宣言」を出し絵画以外の表現を模索している。1963年には初めての映画<眠り>を撮影、1970年代前半にかけて多数の実験的な映画を制作した。また1965年からロック・バンド「ベルベット・アンダーグラウンド」のプロデュースを手がけている。(21)

◆1970年代:名実ともに世界的なポップ・アーティストに。華やかな社交と多数の肖像画制作

1970年から71年にかけて大回顧展が欧米の権威ある美術館を巡回するなど、ウォーホルはこの頃にはアーティストとして世界的な名声を手に入れた。一旦絵画から離れていたウォーホルだが、1971年に毛沢東の絵を2,000点以上描き、アーティストとして再出発している。中国における消費主義の根絶に取り組んだ共産主義指導者の肖像画を、西側の資本主義国のエリート層が購入できるようにしたという点で、アイロニーとして傑作だといわれている。(22)

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《Mao, 1972》1972年 Color Screenprint on Beckett High White Paper 
91.4 x 91.4 cm
出典 : https://www.masterworksfineart.com/artists/andy-warhol/screen-print/mao-91-1972/id/W-6881

ウォーホルは「ビジネス・アートは芸術の次に来る段階だ」と語り、この頃からセレブリティからの注文による肖像画を多数手がけている。これらは一律$25,000が定価であった。1969年に創刊した映画雑誌『インタヴュー』は徐々にテーマを映画から社交界の出来事を網羅するものに変え、この取材も兼ねてウォーホルは有名なディスコ「スタジオ54」に出入りし、ボブ・ディラン、ミック・ジャガー、ジョン・レノンら著名なミュージシャンとも親しくしていたという。(23)

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《Warhol and Jagger, Mick Jagger,1975》1975年
Screenprint on Arches Aquarelle (Rough) Paper 110.5 x 74.9 cm

出典 : https://www.masterworksfineart.com/artists/andy-warhol/screen-print/warhol-and-jagger-mick-jagger-1975-2/id/w-6593
「アートの次にビジネス・アートが来る。(中略)ぼくはアート・ビジネスマンかビジネス・アーティストというやつになりたかった。(中略)うまくいっている商売は1番最高のアートだと思う。」
ーぼくの哲学、アンディ・ウォーホル、新潮社、1998年 (24)


◆1980年代:さらなる多様性の追求

1980年代は、古典絵画をモチーフにしたシリーズ、十字架のシリーズ、カモフラージュ柄のシリーズなど多様な表現を追求した。またジャン・ミシェル=バスキアなど若手アーティストとの共同制作を行なっていたことでも知られている(以下は2人の共同制作作品)。ウォーホルとバスキアは互いに肖像画を制作し、1985年には2人の展覧会を開催。しかし、いずれの展示も多くの批評家から酷評され、疎遠になっていったといわれる。(25)

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《Olympics》1984年 acrylic on canvas
193 x 310 cm
出典 : https://www.phillips.com/detail/jean-michel-basquiat-and-andy-warhol/UK010312/8


1986年の《最後の晩餐》はウォーホル最晩年制作のシリーズで、レオナルド・ダ・ヴィンチの同名作品の複製図版に基づくものだ。ウォーホルはこれをベースに形態の反復、筆の跡を残した油彩画、カモフラージュ・パターンなど、持てる手法を駆使して多数の作品を制作している。そして1987年にこの展覧会のためにミラノに飛び、ニューヨークに戻った後、胆嚢手術の後に永眠した。(26)

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《Last Supper》1986年 synthetic polymer paint and silkscreen ink on canvas
101.6 x 101.6cm
出典 : https://www.phillips.com/detail/andy-warhol/NY010318/14

没後も世界各地の権威ある美術館で定期的に回顧展が開かれており、ポップ・アートの枠にとどまらない多様な作品で我々を楽しませてくれている。2020年9月には京都で約200点(その半数以上が日本初公開)の大回顧展が開催予定であり、この稀代のマルチクリエイターの実像に迫る場として期待が持てる。(27)

「アンディ・ウォーホルのすべてを知りたければ、ぼくの絵とぼくの映画、そしてぼく自身の表面を見ればいい。それがぼくだ。裏側には何もない。」
ー西洋絵画の巨匠9 ウォーホル、林卓行、小学館、2006年 (28)

<アンディウォーホル作品の過去所蔵歴> (29)

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<参考文献>

(1)(7)(16)(22)(29) アンディ・ウォーホル展:永遠の15分カタログ、美術出版社、2014年
(2) https://moneyworld.jp/news/06_00015659_news
(3)(13)(29) 現代美術第12巻 ウォーホル、講談社、1993年
(4)(5)(6)(8)(14)(17~21)(23)(25)(26)(29) 岩波 世界の巨匠 ウォーホル、エリック・シェーンズ、岩波書店、1996年
(9) https://www.artprice.com/artist/30269/andy-warhol?cl=
(10)(11)(28)(29) 西洋絵画の巨匠9 ウォーホル、林卓行、小学館、2006年
(12) https://www.uniqlo.com/jp/store/feature/uq/ut/andywarhol/
(15) アンディ・ウォーホル50年代イラストブック、ゴリーガブックス、新潮社、2000年
(24) ぼくの哲学、アンディ・ウォーホル、新潮社、1998年
(27) https://www.andywarholkyoto.jp/

最後に

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