弘田三枝子〜伝説のニューポート・ジャズ・フェスティバル。
ちょうど1ヶ月ほど前のこと。
仕事で間借りしているヘアサロンで、オーナーがセレクトした、ビッグバンドのジャズが店内に流れる中、ジャズ好きのお客様と、オーナーと3人で「やっぱり、ビッグバンドは良いねー」という会話をして、盛り上がっていた。
すると、お客様が「日本にもね、弘田三枝子という凄いジャズシンガーがいるのよ」と教えてくれた。
「フランクシナトラが、トリをつとめたジャズフェスティバルで、別の日にトリで歌ったの。日本人で初めてだったのよ」
「へーっ!そんな凄い人がいたんですね、聴いてみます!」
「聴くのなら、絶対に若い頃の歌を聴いてね!大人になってからは、整形のし過ぎで歌声がすっかり変わっちゃったのよ。骨格が変わったからかなぁ。本当に残念。」
ここにも、数奇な人生を歩んだ女性がいたんだな。
帰宅して、早速YouTubeで調べて聴いてみた。
ジャズのスタンダードナンバー”マック・ザ・ナイフ”を歌っている。
1963年。弘田三枝子が16歳の時の歌声だ。
日本人とは思えないような、パンチの効いた歌声に度肝を抜かれた。
当時はその圧倒的な歌唱力で、「ダイナマイト娘」と言われていたそうだ。
こんなかっこいい日本人ジャズシンガーがいたんだ。
昔、美空ひばりが歌う「Take the A Train」を初めて聴いた時以来の衝撃だった。
それから、わずか2週間後の7月21日。
弘田三枝子、心不全のため千葉県の病院にて73歳で死去、というニュースが流れた。
弘田 三枝子(ひろた みえこ、本名:竹永 三枝子、1947年2月5日 - 2020年7月21日)日本のポップス、歌謡歌手。愛称はMICO(ミコ)、ミコちゃん。
小学生で進駐軍のキャンプで歌い始め、中学校1年生の頃には本格的に進駐軍キャンプでポップスやジャズを歌っていた。
デビューは1961年。14歳だった。
それから、わずか4年後の1965年。
日本人で初めて、アメリカの「ニューポート・ジャズ・フェスティバル」に参加する。
フェスティバル3日目の夜に
ビリー・テイラー・トリオにトニースコットが加わったカルテットをバックにトリをつとめる、という快挙を成し遂げる。
「ジャスト・ワン・オブ・ゾーズ・シングス」、「ミスティ 」、「ムーン・リバー」、「マック・ザ・ナイフ 」と、「三階節」のジャズ編曲版を歌いあげた。
Wikipediaより
このジャズフェスティバル
前日のトリがカーメン・マクレエ、
最終日のトリがフランク・シナトラ。
他にも、スタン・ゲッツ、ジョン・コルトレーン、ウェス・モンゴメリー、デューク・エリントン、クインシー・ジョーンズ、カウント・ベイシーオーケストラという、錚々たる顔ぶれのトップミュージシャンが参加していた。
日本でも、桑田佳祐、大瀧詠一、山下達郎、竹内まりや、スピッツの草野正宗など、現在も彼女をリスペクトする有名ミュージシャンは多い。
サザンの「チャコの海岸物語」の歌詞に出てくる「ミーコ」は弘田三枝子のニックネームだ。
20代の頃、好きになる曲、芝居の戯曲、
本、絵画と、ことごとく60年代の作品で
この時代に10代〜20代を過ごせたら
どんなに幸せだっただろうと、思っていた。
まだまだ、発掘のしがいがありそうだ。
ワクワクしてきた。
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