人が境界線を越える時、一体何が起こっているんだろう。
「魔が差す」という言葉がある。
悪魔が心に入り込んだように、一瞬判断や行動を誤ること。
死にたいと思うことと、死ぬこと。
殺したいと思うことと、殺すこと。
その間にある境界線という壁はとても高い。通常であれば。
結局、自分以外の人のことは分からない。どういう状況でそれが起きるのか。原因は千差万別だろう。一体、世の中にはどれほどの地獄があるのか。
「悪」という漢字は亜と心からなる。
亜は古代の墓の部屋を上から見た象形、
心は心臓の象形で、悪は墓室に臨んだときの心、「わるい・いまわしい」を意味する。
亜を上から覗き込んだ時、魔が心に入り込む。
対して「善」は、羊、言、言から成る。
羊を生け贄に神に差し出して、原告と被告の両者が良い判断を求める事を意味する。
原告と被告はどちらも自分の中にいる。
善く生きること。
善く生きたいと思う心は、
他者が居て初めて生まれる心なんじゃないかと思う。自殺も、殺人も、必ずや自分以外の人の悲しみを伴う。
大切な人達が嘆き、悲しむ姿を想像できたら、悪魔は入り込まない。
世の中で、自分はひとりぼっちだと思うことは、とても危ない。
大切な人は、何も身近な存在だけじゃない。
ネットの繋がりでも、尊敬する偉人でも、誰かの書くエッセイでも、小説でも、映画でも、共感を持てる人を見つけられると、自分は一人じゃない、と思える。
この不幸は私だけのものだと思っていたら、
案外、世の中にゴロゴロ転がっているよくあることだった、とか。
こういう風に思えるのって、私だけじゃなかったんだ、とか。
この世界も、自分の心も不思議に満ちていて、
なぜ生まれてきたのか、なぜ生きているのかは死ぬまで分からないだろうけど。
どうせ生きているのなら、善く生きたいと思った。
〈引用〉
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