私は「かわいいおばあちゃん」になれないだろう
道端やスーパー、パン屋さんなどで、可愛いおばあちゃんを見かけることがある。
可愛いおばあちゃんは、たとえばセルフレジなどで分からないことがありもたついた時に、少し恥ずかしがりながら「ごめんなさいね〜!私ったら全然分からなくて〜」なんて話しかけてきたりする。思わずこちらもニコッとして「全然大丈夫ですよ〜!」なんて答えたりして、ほっこりする。
ほっこりした帰り道で、うっすらと死にたくなる。
それは、私がそういう「かわいいおばあちゃん」に将来なる未来が思い描けないからだ。
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周囲からは、「あんまり困ってなさそうに見える」「あんまり物事に動じないように見える」とよく言われる。
違うのだ。私はパニックになるとそれを表現する余裕もなくて、凍りついてしまうのだ。ただ、側から見ると、そうした姿は大して動揺していないようにうつるのだろう。
結果、手助けが得られにくくなるのだ。
だからあまり、自分が困っている時に助けてもらえた、みたいな経験とか感覚があんまりない。
もちろん、私が気づいているものもそうでないものも含めて、助けてもらっていることは多くあるとは思う。
ただ、困ってる感を出す→ヘルプが受けられるというつながりが私の中の体感として、あまり理解できていないのだと思う。
周囲の人に目を向けると、「みんな上手にサポートを引き出してるな〜」と思う。困った、どうしよう、これで大丈夫かな?そんな風に言って、助けてもらっている。
そしてその時助けてもらった人は、お返しに今度は助ける側になる。みんな上手に、「お互い様」の世界を生きている。
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「かわいいおばあちゃん」に、私は嫉妬している。なぜかというと、「かわいいおばあちゃん」は、多分今までの人生で、適度に困ってる感を出すことで上手に助けてもらってきた、あるいは人間関係の摩擦を乗りこなしてきた、高度なスキル持ちなのだ。
「かわいいおばあちゃん」には突然変異でなれない。
羨ましい。
私がこのままおばあちゃんになったら、「最近の子たちは甘えている」とか、新しいシステムが分からなくて「社会が冷遇してくる!」とか、めちゃくちゃ言いそうで怖い。偏屈おばさんになる未来が見えすぎている。
私も「かわいいおばあちゃん」になって、みんなに好かれたい。今の私が仮にいけ好かないやつだったとしても、ここから20年、30年、と経験を積み重ねていけば、最終的に、死ぬ頃までには「かわいいおばあちゃん」になれるだろうか。
いや、人に好かれるプランが長期計画というか、大器晩成すぎだろ、と思いながらてくてくと帰ってきた。
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