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バーカウンターのある日々を手に入れるまで(3)怒りのデス引っ越し編

前回のあらすじ

4月からのクソ人事に振り回されてすでに限界だったおもちはついに体調を崩し、毎朝ゲロと涙を精製する機械と化した。
飯も食えず夜も眠れず、人事に縋り付くも事態は一向に良くならず、やがて脳裏には鮮烈で具体的な死への欲求がゴール設定としてこびりつきはじめた。先輩のコロコロ変わる主張や謎の拡散行為により判断力を完全にぶっ壊したおもちに投げかけられたのは病院に行けという保健師さんと寮を出ろという至極真っ当なかれぴっぴの言葉であった。


同居人という男について

さて前回おもちに「あんなとこ(寮)を出ろ」といった彼氏(通称:同居人)について少し説明をしなければならない。
この同居人という男とは友人だった頃を含めると中学生からの付き合いになるのでなんだかんだで十数年余りの親交のある人ということになる。お互いの黒歴史を知り、趣味が微妙にあい、軽率に背中を押せば沼に落ちてくれる。そんな男である。おもちはこいつの元ネトストだがその話は長くなるのでまたにする。
おもちが地元を元気に抜け出して見知らぬ土地にやってきたのもこの男が主な理由であった。ゆえに同居人はとにかくおもちを保護することに命をかけていた。
そんな同居人がこれまでの地獄に対して何も言わず何も知らずだったかと言えばそうではなく、落ち込むおもちから話を聞くたびにめちゃくちゃにキレていた。なんならおもちよりキレてた。

「全員ぶっ殺してやるからな……」

もしかしておもちの周りってバーサーカばっかりか?マジで怖かった。多分夏に死ぬとか言ってたら本気で会社乗り込むであろうことがわかるほどの気迫でキレていた。
そんな輩なのでおもちが毎週手足が痺れる、寮に帰りたくない嫌だ嫌だと駄々をこねて泣く度に怒りもせず、宥めすかしてあやしてで本当に迷惑をかけていたと思う。大丈夫大丈夫と蹲るおもちの背中をさすりながら、平日も週2くらいは一緒にご飯を食べてくれた。

そんな日々の中、寮があんなとこ呼ばわりされたのもこれまた理由がある。

おもちは会社の寮に住んでいた。寮といっても借り上げのアパートみたいなところで、風呂トイレ別オール電化の1Lで家賃は駐車場込みで一万五千円。金のない新社会人にはとにかくありがたい物件だった。
が、入居してからわかったがそこは地獄のゴミクソプレイスだった。
先輩の一件から察するに余りあるだろうが弊社、田舎のクソ企業なので噂の周り方がマジでえげつない。それは本来なら癒しの我が家であるはずの自宅こと寮でも同じことだった。
田舎なので車を使うが駐車場はなぜか常に年次が上の寮生たちに監視され、外出頻度を確認されて共有されている。おもちはお休みに食糧を買い溜めているので週一くらいしか車を出さなかったのだが、そのことを「あの子はどうやって生活してるの?」と同期経由で探られた。反対によく出かけていた同期は「めっちゃ出かけるよね笑」といつも言われているらしい。
おもちが新人の頃には廊下にゲロを撒き散らされる事件があり(もうこの時点で大分意味不明)それを「今までこんなことなかったから」というクッソ雑な理由で同期たちと一緒に疑われる(その頃年次が上の人が新入居者として何人か来ていたがその人たちに対しては特に何もなし)始末ですでに地獄マシマシだった。マジで私の幻覚かなんかか?ってくらい酷かった。
まあ夜飯食って寝るくらいしかいないしな!とおもちは開き直って(ゲロに関してはやってないし)それなりに暮らしていた。とはいえ、生活音については普通にしていても何かを言われそうでおもちは毎日息を殺して生きていた。
ところが、4月から早くて20時帰りが当たり前になったおもちの生活は音を立てたらまた何か言われるという恐怖から徐々に成り立たなくなっていく。
洗濯、掃除機はおろか、風呂に入ることすら恐ろしく、ドライヤーも使えない。(洗濯については時間指定でなんとかやってた)テレビを見るのも億劫だし恐ろしく、気付けば好きだったドラマもアニメも見られなくなって、YouTubeすらも見られなくて、ゲームも全然しなくなって、部屋にはストレスで抜け落ちた髪の毛と埃が散らばって、畳むことすらできていない洗濯物が散乱している。やがて料理もできなくなれば冷蔵庫の中で腐ったり干からびたりするものが増えていった。
土日は耐えきれなくて同居人の家にいったり、同居人が仕事でいなければ一日中飲まず食わずで毛布にくるまって蹲って泣いた。
推しを見られてない。ある日気付いて本当に頭が真っ白になった。あれだけ追いかけていた推したちの声を聞くことすらできなくなった。そして思った。推しの応援すらできない自分になんの意味があるのか?
でも推しの声を聞くにはあまりにも余裕がなく、当たり障りのない料理動画や咀嚼音ASMRばかり見た。食べ物見ながらでないと自分の食事ができないから。
推しが何かをして心が動くことに耐えきれないほどおもちは疲れていた。ずっと見たかった生配信が見られなかった日はそれはそれは凹んだ。それでも見られなかった。
家でも会社でもそんな状態のおもちだったので目に見えておかしかったのだと思う。
日常生活を送る上でおよそ正常な動きができていなかったので色んな人に心配をかけた。

だから日々疲弊するおもちに同居人は「出て行こう、一緒に住もう」と投げかけたのだろう。
そして、判断力が終わってるおもちはその言葉にこう返した。
「無理……」

死にてえのかこいつ。


幻影のゴール

震える声でおもちがそう返したのにはおもちなりに少し理由があった。それは死を明確なゴールとして据えた前回にも関係する。
話は遡って。先輩が辞めると喚き出しておもちがほぼ毎日のように人事と面談していたある日のこと。

「役員はね、来年あんころさんだけを残してあとはみんな異動させようと考えてるんだよね」

人事役席に投げかけられておもちはキョトンとした。は?
「だから来年まで!来年まで頑張ってくれませんか?そしたら終わるから!」
アホなの???俺は今辛いんだが?わかるか「今」って。今!つらい!おもちは!どうなるの!
思考回路がぎゅるぎゅると音を立てながら回転する。というか一人って。考えるだけでも辛そうだけどギャグで言ってんの?
だが人事役席はどうやら真剣らしかった。本気でその提案がおもちの救済になると思っているらしかった。というかもうそう言うしかなかったんだろうなと思う。
おもちはぼんやり、それを聞きながら中学生の頃の苦い思い出を噛み締めていた。ちょっと変わったクラスメイト(他人にナイフを突きつけたりする類のやつ)に同じ部活で同じクラスだからという理由だけで付き纏われ、仲の良かった友達とも疎遠になり、辛いのに、私より先に泣きながら「苦労かけてすまないね、あと数ヶ月だからね」という担任を前にして飲み込まざるを得なかったあの夏の日によく似ていた。私の「今の辛い」はしばらく先のあるかないかもわからないゴールを餌としてチラつかされたことによりまた飲み込まされたのだ。
そんな言葉に騙されたことなんて何度もあったし、信じて我慢した結果、おもちは嫌な目にもあった。でも我慢してるのは自分だからと毎回声を殺して泣いた。そんな自分を思い出した。
マジで嫌な時間だった。それでも反抗できなかったのはそれが無駄だろうなあと諦めていたから。すでに疲れていた。
それからおもちは考えた。人に騙し騙しゴール設定されながら嫌な思いをするくらいなら自分で決めよう。そして決めた。「夏に死のう

さて話題はまた同居人に同居を投げかけられたときに戻る。
一緒に住もうという話は以前から出ていて、どこか実態を持たない夢のような話として持ちかけられていたし、持ちかけたりもした。
でもその時は違った。「4月くらい目標でさ、引っ越そう」具体的な輪郭を持ったそれはゴールとして投げかけられた。そんな言葉におもちはパニックになった。
味方だと思っていた人が、今まで私を酷い目に合わせてきた人々と同じように勝手にゴールを吊るしている。普段なら思わないのに弱りきっていたおもちは気付くのが嫌でとにかく全力で拒否した。
「無理無理無理無理」「繁忙期に引っ越しなんてできない」「家探せない」「できない」
つらつらと泣きながら拒否の言葉を並べるおもちに同居人は怒りもせず「家はこっちで探す」「おもちさんは後からゆっくり入居したらいいよ」と根気強くときはじめ、マジで家も見つけてきた。
最初は頑なに拒否していたおもちもだんだん「6月くらい目標なら……」から最終的に「引っ越しがなんぼのもんじゃい!繁忙期にやったらぁ!」へ変わっていった。

これに関してはマジで同居人に感謝してもし足りない。掬い上げてもらえて、生きていられてるのはこの人のおかげ。本当にありがとう。でも靴下を放牧するな。


診断名とインターネットエンジェル

さて、そんな引っ越し攻防戦の少し前からおもちはついに通院を開始した。
いきなりお前は病気じゃない、甘えだと言われたらどうしようかとドキドキしていたが全くそんなこともなく、先生は表情筋は仕事しないが話を聞いてくれた。
「それあんころさん悪くないじゃん」
4月からの現状を聞いてあっさり言ってのける先生におもちは死ぬほど驚いた。
それから先生はとりあえずと胃の薬と睡眠薬を出してくれるようになった。
睡眠薬、引くほど眠れてちょっと怖かった。ただ意識が中途半端に覚醒して金縛りのようになったり、ベッドの下に引き摺り込まれるようになったりして夜中に叫んだり、意味不明なLINEを人に送ったりした。その節は大変申し訳ございませんでした。
それでも夜眠れるので多少は気持ちも落ち着きはじめた。お姉様にも当時クソほど言われたが人間、本当に睡眠が大事だなと思った。
が、あくまで多少の域を出なかった。病院に通っても吐き気や朝の号泣は止まらなかったし先輩や新人の声や気配だけで眩暈がした。先輩はこの頃、辞めるまで1ヶ月を切ったこともあり、日次の仕事すらろくにしてなくて何してるのかマジでわからなかった。多分引き継ぎ作ってたんだろうとは思う。新人は先輩が辞めるのでなぜか張り切り、失敗して、そのフォローを私がする状態だった。
そんな状況で仕事終わりに1.2週に1回程度で通院する日々が始まった。
どの薬を飲んでもいまいち吐き気や頭の気持ち悪さがとれず、先生も首を傾げていた。
「鬱じゃなさそうなのにねぇ…」
診察のたび、二人して首を傾げた。

そんなある日、ふらーとやってきて、いつものように近況と状態を説明していると先生ははっと目を見開いてからいくつかおもちに質問を投げかけた。
「学生の頃からも夜眠れなくて平気だったりしたことある?」
おもちはその問いにやや考えてから頷いた。
学生時代。限界アルバイターだったおもちは、就活中に首都圏の実家と修羅場バイト先と新潟の就活会場を行ったり来たりする生活をしばらく続けていた。
ひどい時には
1日目 バイト先→新宿→深夜バスで新潟
2日目 新潟で就活→深夜バスで新宿
3日目 新宿→バイト先→夜に実家
みたいな日も何度かあって、新宿から朝のシフトにいくために適当なスパなんかに入って身支度してから出勤するのは当たり前だった。
そんな毎日なので生活リズムも狂っていたし、眠れない日もあった。それでもアドレナリンというか楽しくなっちゃってた。
先生は納得したように告げた。

それね、双極性障害っていうの

双極性障害について詳しい話はまあ避けておく。この辺とかがわかりよいだろう。いわゆる「躁鬱」である。
先生曰く、多分学生時代からすでにその傾向はあったが、この一年のストレスで完全に爆発したのだろうと。テンションクソ高い時とひっくくて死にかけの時があったのでその差に説明がついてなんだか安心した。
それ用の薬にしよう、と言われて先生とお別れした。それからおもちは会計を待ちながら「双極性障害というものらしい」と同居人にラインした。
そしてふと、思い出した。インターネットエンジェルのことを。

超絶最かわてんしちゃんこと超てんちゃんのことは最初は推しの配信で知っていた。薬を飲み始めたくらいに流行り出して、回復してる中で見ていたしそこからどぷっとはまってしまった。
キラキラした女の子が好きだ。超てんちゃんはきらきらしていて、でもどこかグロテスクで、涙が出そうなほど素敵な女の子だった。私の貧相な語彙では言い表せないほど。どのエンディングも好きだし、どの超てんちゃんもすき。
超てんちゃんと同じ病名だなあ、とぼんやり考えながらだからどうというわけでもないが安心した。オタクは単純だ

薬をもらって帰って飲んで寝た。
次の日、吐き気も薄まっていたし何より霧がかった脳がはっきりしていてびっくりした。朝一番に推しの声が聞けた。



引っ越しするぞ!

6月予定の引っ越しをいきなり3月に繰り上げたことで最初に出た支障は引っ越し業者がいないだった。
いや、正確には頼む業者はいた。問題は何社もの見積もりに立ち会う気力と部屋に人を入れられるよう掃除する時間と余裕がなかったことだ。
宅急便、便利屋、ネット見積もり……色々考えた末におもちは思いついた。「自分でやろ
実はおもち、実家から地獄プレイスまでの引っ越しは宅急便などなどで引っ越し業者を頼んでいなかった。単純に物がなくて新生活だったので家財を新しく買っていたのがよかった。
今回も、それなりに家電なんかは買い替える予定だし、この地獄のような業務の後に人に会うくらいならはじめから自分でやりゃいいじゃん、と。
早速同居人に報告する(同居人はすでに自分でやることを決めていた)と「母がワゴン借りるって!」話が早すぎるだろこの親子。
お言葉に甘えに甘え、家電の一部はまだ結構綺麗なので引き続き使う物や大きなものはワゴンで手伝っていただきつつ、残りのものはおもちの愛車(通称ランドセルくん)と同居人の車で少しずつ運び出すことにした。
予定が決まっても最難関が残っていた。そう、荷造りだ。
きちんとしている人なら、きっと残業しながらも荷造りができたのだろう。でもおもちはデフォルトがきちんとしてないのにこんな状態だったので部屋は足の踏み場もなかった。
なんとかしなければ。焦ってとりあえずAmazonで引っ越し用の段ボールと養生クッションを注文した。引っ越し屋さんの画像やYouTubeの荷造り動画や引っ越し動画を見て勉強した。あと100均でプチプチとか良さげな引っ越しグッズを買い漁った。
さすがAmazon。すぐに荷物は届いた。そこからおもちの荷造り戦争は始まった。

とにかく物がたくさんあったので断捨離に次ぐ断捨離。そして整頓が待っていた。

少しでもいらんと思ったら捨てる!いらん!を繰り返した。最初は土日で済ませるつもりがスケジュール的に間に合わないと分かったので平日残業したあとも荷物を詰めた。もうこの辺から出て行くからこんなゴミくそうんこ寮どうでもいいやにシフトチェンジしていた。もっと早くからそうしろ。

コツコツ集めたグラス類
グッズだけでこの有様

フィギュア類は半紙のおかげで無事だった。
さまざまなサイトを練り歩いては梱包のコツを学び、実践した。棚やテレビは見よう見まねで養生したがその甲斐もあって全て傷がつかずに済んだ。
仕事の方はどうかと言うと先輩が辞めたので業務量的にはきつかった。正直辛すぎて記憶がない。
あと事務的な手続きにも地味に時間をとられて嫌だった。クソクソ業務の傍らで引っ越しに向けて事務書類を作ったし書類に印鑑押しまくった。なんで稟議はペーパーレスなのにこれは紙なんだよ。
ちなみに寮を出て行くの人事にすっごい渋られた。その年結構出て行く人が多かったのと多分寮出ていったらやめると思ったんだろう。大正解だが?
「あんころさんは家賃補助出ないよ」
という人事の言葉を「でも死にたくないので…」で封印した。(車の運転をしづらくなったのと睡眠薬の副作用で辛いから友人の近くに越したいで話通していた。嘘ではない)
お姉様は心配そうにしていたが静かに準備をしているおもちに反対もせず、「引っ越せる???」と確認してくれるだけだった。
保健師さんには同居人のこと含め正直に白状した。「やったじゃん!辞められるね!」最強じゃんこの人。


そんなこんなで仕事と荷造りの往復だけやるとメンタルが死ぬので隙を見て家電や家具を見にいった。

あとまどマギ展もいった。

そうこうしているある日、「ママも手伝いにいこうかな〜」え?「頑張って新幹線乗ってくね!(`・ω・´)」実 母 参 戦 決 定
母、新幹線に一人で乗ったことないのに頑張ると言ってきかなかった。自分の引っ越しより母が新潟に辿り着けるかが心配だった(大丈夫でした)
ちなみに同居人母は「おもちちゃんのママ大丈夫かな〜」と純粋に心配してくれてウケた。ありがとうございました。

引っ越し当日は大体滞りなく終わっていた。母が荷解きをしてくれて、あとはみんなで家財を運び入れた。なんやかんやで家としての体裁を保てる程度には整った。
この後ゴミくそを掃除しにいったりもするけどそれはまた別で話せたらいいなぁ。

みんなでピザを食べた

引っ越して、新しいベッドで眠ると睡眠薬を飲み忘れたのによく眠れた。そのあとも薬を飲まなくても眠れるようになった。人体あからさまだなーと思った。


令和3年度産地獄、終焉へ

引っ越しが終わる頃、3月も終わりだった。
そう、決算が近づいていた。そして人事異動も。
結論からいうと私のトラウマを呼び覚ました人事役席の話はそのまま異動として発令された。ただ一人私だけを残して全員異動。これマジでここ数年一度たりともなかった(近いものはあった)パターンらしく、周りからは死ぬほど心配された。
地獄、第二ラウンドのはじまりだった
そんな感じなので引き継ぎに準備に大忙しで職場での記憶はほとんどない。強いて言えば3月末日に日次の仕事終わらせてからふらふらになりつつ翌日の準備(お姉様もいなくなるから自分がやらなきゃ!で追い込まれていた)を泣きそうになりながらして「おもち!もういい!明日使うものだけ出せ!」とお姉様にストップかけられたことぐらいだ。
先輩には連絡してねと言われたが一度も連絡してない。
クソ忙しくて休日も引っ越しだったのでそんな気持ちも起きず、そのままにしてある。
元新人は別部署にいって会わなくなったが見かけると舌打ちが出るようになった(マジでびっくりした)
お姉様は別部署にいったのに相変わらずおもちを突いたり心配したりしてくれる。この人いなかったら本当におもちは去年立ち上がれなくなっていたと思う。
新しく部署にきた人たちとはそれなりに。新卒ちゃんはニコニコしていてコミュニケーションがとれるのでそれだけでおもちの中では100億点だった。まあ、今年異動してきた先輩が結婚して若干トラウマを抉られたけど。

地獄ではなくなったかといえば決して違う。相変わらず地獄が引き続いている。当たり前だ一人だぞこっちは。
ただ救いようのない死しか逃げ道がなかったあの日よりはマシになっただけ。
でも人事はすでにおもちの地獄は「終わった」と認識してるようなので退職休職も視野に入れています。保健師経由のこちらの病状と現状説明に対してアクションなしなのでそういうことだなと思ってます。
正直去年は人事も役員に振り回されて一緒に苦しんでくれたから義理立てもあって耐えていたけど、役席が変わってしまってそういう対応になったのでもういいかなと思ってます。これは愚痴です。

毎日泣いて過ごした日々から少しずつおもちは立ち直っています。でもたまに辛かったこと、嫌だったことを思い返してはまたあの「夏に死のう」という気持ちを取り戻しつつあって。
このnoteを書き出してから色んな人にまた心配かけて申し訳ないなと思いつつ。とりあえずおもちはギリギリだけど、今日も生きています。

なので夏の終わりにこの遺書のような文を書いています。
多分夏に死ぬことはないけど。もし耐えきれなかったと聞いたときはどうかこの遺書を思い出していただきたい。そこまではとりあえず歯を食いしばりながら生きていたので。
色んな人に救われてなんとか生きてます。ありがとう。

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