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正しさと快適の厄介な関係

何故大河が「史実と異なる」ということにあんなに疲弊する人がいるのか、ということはこれまでのちょいちょい考えてきました。

私の結論としては、大河ドラマというものが「正しさを錯覚する」という人間の能力を上手に利用して作られているからではないか、ということになります。このことについてちょっと書いてみます。

デザイン的には、人間にとって「正しさ」というのは非常に安定した、快適な、とても気持ちの良い状態こと。

自分自身や環境が正しいと確信が持てたとき、人間はすごくリラックスします。

外部からの攻撃、例えばお前は間違っているとか、お前は愚かであるとか、そういう糾弾的な言動に怯える必要も、これは間違っているかもしれないなどという疑念・疑惑という計算能力を使用する必要も、ものすごく暑いとか、痒いとか、痛いとかいうような不快な違和感を意思か何かしらの方法で調整する必要もない状態ですね。

人間の脳はなるべくエネルギーを使わない方向に努力しますので、「正しさ」というものは、普通の人が想像している以上に快適で魅力的です。

あまりにも魅力的なので、ここで人間は概念の錯誤を起こします。

つまり、CPUをあんまり使わなくて良い、ノイズのない快適な状態を自分にもたらすものは「正しいもの・ことである」と錯覚するようになる。

その結果どういうことが起きるかというと、例えば、同じことを言ったとしても、普通の、我々レベルの顔面偏差値の言葉よりも、美男美女の言葉の方がより正しく聞こえてしまうという現象が起こります。

美男美女はノイズが少なく、人間にとって快適なので、無意識に正しいと感じてしまう。大河ドラマはこの快適バイアス(とりあえず勝手に作った)を最大限利用して作られています。

登場人物はみな平均以上の顔面を持ち、背景も小道具も美しく審美された世界、現代人に耐え難い出来事は正面切って映されず、本物の不衛生さはなく、汚物も見あたらない。

まさにフィクションの世界で、さらにその道のプロによる考証が入ることによって、可能な限り正しさが担保されている。

作り込めば作り込むほど、そして私たちにとってわかりやすく、快適な世界であればあるほど、私たちは無意識にそれは正しいものであると錯覚してしまう。

なので、その快適な錯覚の土台を突き崩すようなことが起こると、瞬間的に沸騰するのではないか。

「史実とは異なる」とか「これはフィクションである(ドラマである)」という棒で大河を叩く人は、この土台部分を攻撃することで誰かを打ち負かしたり傷つけたりすることができると無意識に知っているんじゃないか。

なー…というのが今のところの私の考えになります。

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