西郷どん個人的総評③大河TLの不協和
まだまだ書くよ、西郷どん個人的総評。
今回は西郷どんの最大の問題であった「理解されない」問題について。
何故ここまで西郷どんが、(私の周辺ですけど)特にTwitter民に理解されないドラマであったのか。
一言で言うと歴クラと呼ばれる大河の支持層とされている人々と、趣味・嗜好・認知、全てが合わなかったからじゃないかと思います。
Pの櫻井さんが歴史に詳しくないことはご自分で言ってましたが(謙遜もあると思いますが)、やはりそれは通常の歴史ファンの趣味・嗜好とは違う感覚の持ち主であるということだと思いますし、脚本の中園ミホさんもいわゆるオタクではないなあ、感覚が、ということを視聴中なんども思いました。
また西郷どんは視覚情報での表現が多かった。言語情報は省略されることがあり、ハイコンテクストで表現された(重要な感情表現はほぼそれだった)。この辺り、おそらく本読み、あるいは言語情報を重視する脳の人にはわかりにくかったのではないか、と想像します。
ブースターを地元、歴史ファンではない人々に設定されていたということ、つまりターゲットがネット民、歴史クラスタではなかったことも、悪評を増幅しました。
今日、コンテンツはターゲットに合わせて作られるものであり、ターゲットじゃなくなった瞬間に面白いと思うことは難しくなります。大河TLのTwitterユーザーにはこのあたりのマーケティング的な考えを嫌う人も多かった印象です。
この辺は、地元鹿児島、九州での高い視聴率 vs ネットでの悪評という形で如実に表れていましたね。
批判が多かった歴史の取り扱いについては、「脚本が歴史を知らないから捏造している」という意味合いの批判を多く見かけましたが、こういうフレーミングから脱せなくなってしまった人も多かった。
(フレーミング:ある枠組み、ある視点に囚われ、その枠付けとは異なる捉え方や視点が取れなくなってしまう認知バイアスの一種)。
個人的には、主に経済、マネーの扱いについては磯田先生の、おそらく地元では有名だけど一般に知られていないエピソードの挿入(終盤の糸が菊次郎を児玉家まで迎えに行ったエピ、軍服を焼いたエピなどですね)から原田先生の気配を感じました。
多分、私たちが気づかないだけで、様々な地元の伝承が取り入れられていたんじゃないかと思うんですよ。その辺をもっと詳しく知りたかったけれど、丸島先生のように我が身を削って解説してくれる時代考証の先生はレアポップなのでしょうがない…
と、話が逸れましたが、Pも脚本家も、いわゆる歴史好きではなかったから、歴史好きの価値観にとらわれなかっただけなんじゃないか、という気がするんですね。
だからこそ、②に書きました通り、西郷どんはこれまでの大河、歴史系のエンタメと違う立場に立つことができました。これはあくまで個人的な意見ですけれど、それをもって作品が誤っている、質が低いとは決して言えないものだと思います。
クローズドな閉じた時間の中でのドラマ、西郷隆盛の異様なまでの共感性という資質によって形成されていく生涯、地元重視、役者を生きさせる演出方針などは高いレベルで調和していました。
ただし、それがまるで口に合わない、という人たちが多くいた。それはそれで構わないし、当然だと思うんですね。
私や西郷どん好きな人がその中で頑張ってしまっただけで。もっと平和なSNSに行けばよかった。この点は個人的反省点ですね。
大河ファンとしては、ターゲットを変えて作品群に多様性を持たせることは絶対に必要だと思います。過去の成功体験に埋没してしまうことをこそ避けてほしい。真田丸、直虎的な作品が続くことは決して歓迎できません。
やっぱり挑戦してほしいし、新しいものを出して行ってほしい。でも王道に戻るのもありですし、伝統的?と思われている大河も悪くはないと思います。とにかく過去これが受けたから今年も受けるだろう的な作品は見たくないんですよ、あれはねえ、ほんとしんどい…
2018年は(大河TLでの)不協和はひどかった、その代わりドラマについていけた人は、想像もしなかった新しいものが見ることができた、という意味で面白い年でした。
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