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お金が喜ぶ使い方

お金からは逃げられない

出だしから過激発言で申し訳ないのですが、私はお金が大嫌いです。
いつの時代もお金で人のヒエラルキーが定義されてしまうから。コロナ禍のような緊急時にはそれが「命の選別」という非情な形に繋がってしまうから。

でも社会的信用だとかそう言ったことを考えると、お金のことを考えない訳にはいきません。
自給自足できるだけの各種ノウハウがない上に、そもそもこの国民である限り納税という義務があるので、残念ながらお金に無知な訳にはいかないのでした。
納税と労働については今の学校教育(大学含む)では学びの機会があまりにも不十分だと思っているのですが、その話はまた別の機会で。

ほどほどが一番健康的

目に見える資産の土台がお金です。絶えず出入りしている目に見えるものを増やすには、収入を増やすか支出を減らすか、または二つを併用するか。それに尽きます。
今私のお腹やお尻にはぜい肉がある訳ですが、ちょっとカロリー蓄えすぎだから運動してエネルギー消費を増やすか食事量を減らしてカロリー摂取を抑えるかなんとかしなさいよ、と言われているのに似ている気がします。
お金があればあるほど良いかというとそうは思っていません。生命維持するには十分すぎるほどのぜい肉がある状態だと疾病リスクが高まり逆に生命にとって危険ということになります。
お金で言うと、ぜい肉の代わりにいらぬ人が寄生してくると言えばいいでしょうか。それらの人はお金が減るとダイエットよろしくいなくなります。
ぜい肉は人間の生命維持システムとして組み込まれているものですが、人間が生んだお金というものも同じような仕組みになっている点が面白いなあと思っています。

お金に対する「なぜ」の追求

過去も今も、人のなせる所業かと思うような事件が絶えません。最近だと人を道具のように使い捨てる経営者、国民の税金を無限ATMのように認識している政治家や官僚などがよく話題になっています。
お金にもの言わせて振るう権力は、お金がなくなれば権力もなくなるでしょう。
何のためにお金が欲しいのか。
生きるため?やりたいことをやるため?社会的ステータスのため?大切な誰かの幸せのため?
お金の収支を振り返る時にその目的もこまめに確認して、お金に振り回されない自分でありたいと思っています。

モノが飽和した現代では体験を買う機会が氾濫しています。ただ、あれもこれもと旅行に資格取得にスクールにと無差別投資したり、友達に誘われたものに投資したり。人生を楽しむためなら投資のしがいのある使い方になるのですが、自分のポータルスキルや感性を高めるための投資なのだとしたら少しその目的から外れてしまっているように感じます。
自分の強みや独自性の高いスキルをあらかじめわかっておく必要があります。するとまた社会人になるまでの教育の話に戻ってしまうという(笑)

自分の手元に来てくれてありがとう

なぜの追求は、「そういうものだから」で終わってしまうと生まれません。お金と付き合うということは人間の歴史やあり方を考えることでもあるし、一生「なぜ」を考えることでもある。
硬貨や紙幣は、物々交換で成り立っていた時代に代わって人間が生み出した「共通単位で価値を比べることができる目に見えるモノ」です。各種口座や電子マネーはそれらを数値として可視化したものです。せいぜい100年しか生きていない人間がたやすくわかるものではないと思います。

生まれてきたお金にも意思があるとしたら。
お金の長い歴史の中である時代に生まれ、たまたま自分の手に渡り巡り合った硬貨や紙幣たち。
暗いところに閉じ込めておくのも、あちこち動かして過労にさせるのもきっと窮屈だろう。
たまには静かなところで休ませて(貯金)、たまには派手に動かして(投資信託・株式)、ありがとうと言い言われながら別の人の手に渡る(店舗などでの消費)と幸せなんじゃないか。時折お札を揃えてシワをのばしてあげたり、雨の日には乾かしてあげたり。
そんな風に思ってしまう私は、そろそろお金さんから「勝手に俺の気持ちを決めんな」と怒られてしまうかもしれない。

#お金について考えていること

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