人と真実が違うということを超えていくのだ

「子供を保育園に預けてるなんてかわいそう」って言われる話をfacebookに書いた。
書いたときは言われた直後で、くっそーーと思って勢いで書いた。
読んでくれた友人たちから、
「保育園、いいところだよ、自分も感謝してる」
「かわいそうなんかじゃないよ」
「いまだにそんなこと言う人いるんだね」
という寄り添いのコメントが並んだ、ありがたかった。
そのコメントを読んで返信しながら、このことの何が私に引っかかってるのか分かってきた。
「保育園は豊かだ」ということに不安があって、「豊かだよ」ってみんなに言って欲しかったのではどうやらないらしい。
どうしてもスルーできないこと、それは、
「自分にとっての真実と、相手にとっての真実が違うとき、
そこには分断しかないのか」

ということ。

保育園は育児のインフラであり、私のパートナーのような存在。
保育士さんたちを職業人として心から尊敬している。
同じクラスの子の母たちは、お互いの子供を自分の子のように愛し、見守り、ときに叱り、成長を喜び合う。
たくさんの関わりが娘にあることがとても豊かだと思うし、それぞれの顔を思い浮かべると込み上げてくるものがある。
きっと同じ気持ちで「うんうん、分かるよ」と思う母は大勢いるはずだ。
これは私にとっての真実。自分の中に疑いはない。

そこに水を差すように向けられる「保育園に預けるなんてかわいそう」という言葉。
(体験したことがある母もたくさんいると思うし、子育てに限らず、
なんらかのステレオタイプや思い込みによって、同じようなことって内容を変えていたるところで起きている。
「大学に行かないなんて」「◯◯人?外国人なんて」「親が離婚してるなんて」
という類のあれだ。同じ話だと思って読んでもらいたい。)
「さあ、ゴングが鳴ります、保育園に預けることがかわいそうか否か、ファイ!!!」
ってことがやりたいんじゃない。保育園がいかに素晴らしいかを分からせたいわけじゃない。
私の憤りは、「保育園最高ってことが真実なのに分かってない!」とか「ほっといてくれ!」ってことじゃなくて、
「保育園はかわいそうっていう人とは分かり合えなくて決別するしかない、分かり合う方法が分からない私」っていうところにある。
「そういうのは聞き流せばいいよ、気にしなくていいよ」というアドバイスもたくさん届くし、それが有効なときも多いと思う。
でも、自分とは違う真実を持っている人とは決別するしかない、なんて、寂しいじゃないか。
そもそも、すべてにおいて同じ真実を持ってるなんてあり得ない。
これについては同じ感覚、でもこれは違う、その繰り返しで、違うと分かった瞬間に決別してたら、世界中のすべての人と決別し、「どうせ私は1人だ」しか残らない。

「保育園はかわいそう」という人には、何があるんだろう。
自分が親が恋しくて寂しかった、という体験があるのかもしれない。
自分が子供を預けて働いて、「もっと一緒にいればよかった」と後悔があるのかもしれない。
自分の知ってる保育園育ちの人を見て、思うことがあったのかもしれない。
きっとどれもその人にとっての愛と関わる何かなんだろう。
「保育園はかわいそう」の背景に、どんな個人的な体験があって、それをどう理解しているのか、本人にしか分からない。本人にすら分からないことも多いだろう。
そう思う理由があったら、人に何を言っても許されるってことはない。
「人の子供を頭ごなしにかわいそうなんて言うんじゃねえ」と私も思うが、
その人の中にある体験と真実は、その人にとってはやっぱり真実なのだ。
だから「かわいそうであることが事実かどうか」って戦っても、何にもならない。

自分の真実と相手の真実が違ったとき、違うから仕方ないと諦めたり、自分の真実をなかったことにして同調したり、それはもう終わりにしよう。
トライしたところで、和解したり超深い共感が得られたり、そんなことばっかりじゃないと思うけど、
「そう思うんだ、もっと教えて、あなたの真実を聞かせて」ってたまには言ってみよう。
誰の真実も尊く等しい、だってすべての命は尊く等しい、そういう世界を目の前に起こしたい。
これを諦めたくないと思う。

とはいえ、全部の違いについて、全力でこれやってたら生活できないから、流しちゃうっていう術も使いつつ、頑張ったり嘆いたりしながら、しなやかにやっていけるといいな。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?