「この世界の片隅に」は反革命である

「この世界の片隅に」のアニメ映画が地上波で初放送されたとのことで、この映画をたまたま見たことのある者が当記事を書くことになった。そのため今月はまさかの2本以上の記事が生産されたことになるが、そういう月が存在しうることはあらかじめ公表してあるため、さほど問題はないだろう。

この作品が反戦映画であるかについては議論の余地はある。ものすごく大まかにあらすじを書くならば、戦時中の日常が戦況の悪化と共にだんだんと悲惨な様相を呈すが、敗戦を契機に反省して立ち直って、これからの未来を希望を持って生きてゆく、とすることができるだろう。もちろんこれが日帝本国人にとって都合のよいお涙頂戴作品にすぎない、とすることも当然可能ではあるが、多くの市民はこの手のプロットを反戦的なものであると見做す。だからこそ反戦映画と見做されるこの作品を市民は安心して絶賛できるのである。少なくとも今の左傾化した日本社会においては「この作品が好戦的であるがゆえに素晴らしい」とするような感想は基本的に存在しえないという点が重要である。

問題なのはこの作品が反戦か否かではなく、明らかに反革命的な作品であるという点である。一方でこの作品には画期的な点もある。本作品のヒロインであるすずが玉音放送に納得しないのである。これは朝ドラヒロインでは到底考えられないプロットであり(なぜならば朝ドラヒロインは当初こそ好戦的な場合こそあれど、その場合でも終戦前までには必ず戦争の愚かさに気づき、玉音放送のころには立派な反戦思想の持ち主になっているからである)、ここがすずの革命的なところでもあるわけだ。

すずは敗戦の前に、不発弾の時間差による爆発にまきこまれ、義姪と自らの右手を失う。これは単に不運なだけにすぎず、ゆえになぜ自分がこのような理不尽な目に合わなければならなかったのか、という思いを常に抱えていた。そこにきて終戦の知らせ、では自らの理不尽を説得することができない。この場合の終戦とは敗戦であり、大日本帝国による先発帝国主義及び共産主義連合勢力に対する革命戦争が敗れたことを意味する。したがってここでの玉音放送への抵抗は、革命戦争には必然的に伴う理不尽を受入れ、徹底的に戦い抜くべきである、というすずの革命的意志の発露なのだ。

しかしすずはあっさりと転ぶ。焼野原に立てられた太極旗を見て、大日本帝国による革命戦争がどういうものだったのかについてのもう一面を察する。革命戦線を維持するために暴力的に他者を虐󠄁げ、収奪してきたということに気づくのである。そこで自らの理不尽も、それと同様の暴力が別の誰かから向けられた結果に過󠄁ぎない、と悟ってしまう。ここまでくればあとは一瞬である。要はすずは革命戦争によって必然的にもたらされる地獄のような惨状に結局は耐えることができず、暴力的な植民地経営への反省へと問題を転嫁することにより、日和って反革命へと転じてしまったのである。

以上がシナリオ面におけるこの作品の反革命性であるのだが、更にもう1つ重大な反革命性をも含む。この作品は、見た市民が戦時下の日本人も今と同じように日常を生きる同じ人間である、という感覚をお手軽に得ることができるという特徴を持つ。そこから同じ人間であるにもかかわらず、戦争によってあんなに悲惨な目に合うなんて理不尽である、ということへと繋がって行く。誰も天皇のために死にたいとは思っていなかった、本当は家族や友人、恋人が大事だった、今の人とさほど変わらない人たちが受けた理不尽への追憶、それが本作品が反戦的であると認識されやすい所以でもある。

しかしここでいうところの「同じ人間である」とはヒューマニズムに基づくものである。したがって先発帝国主義と共産主義の連合が勝利した戦後秩序に準拠した人間観であることに留意する必要がある。であるがゆえに、日帝本国人へのヒューマニズム的お涙頂戴を前󠄁提とするのであれば、必ず日帝による戦時中における暴行、自殺強要、虐殺等が問題にされるのである。

もちろん何度も書くように今の日本社会は左傾化しているので、暴行、自殺強要、虐殺がいいものである、などと考えるものはほぼ存在しない。ゆえに争点は事実認󠄁定、あったかなかったかという歴史戦にしかなりえず、決して思想戦へは向かわない。好ましいとされる価値観は、左右で別れているとされる両陣営においても根本のところでは共有されているからである。

ヒューマニズムを自らのイデオロギーにより完全に退け、虐殺を実現した組織としてはナチスが存在する。ゆえにナチスは絶対悪の地位を確立することができた。しかし大日本帝国の虐殺にはイデオロギーがなく、絶対悪になりきることすらできていない。更にイデオロギーなく虐殺をするものだから、敵もそうしてくるものだと思い込み、無謀な特攻や集団自決が肯定されていくのである。

ところがこの無謀さは、戦後秩序に対して図らずも外部性を生んだ。個を捨て天皇陛下万歳と叫びながら自殺特攻してくる理解不能な集団に、戦後秩序は恐怖したのである。ゆえに彼らは日本人を自らの信奉するヒューマニズムの枠内から外すことができ、原子爆弾の投下までも可能にした。かくして戦後秩序の外部である大日本帝国は、革命戦争のためにはどのようなヒューマニズムに反する無謀も肯定することができるし、敵に対してはとことん非人道的になることができるのである。この解釈以外に大日本帝国の革命戦争を肯定できるものはない。したがって「この世界の片隅に」が市民にもたらす感想というものは、反革命以外のなにものでもないのである。

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