貞操観念の変遷と経済的価値  著者:伊藤野枝

 過去現在を通じて、婦人の道徳の根棋をなしているものは貞操問題だと云うのは事実です。貞操問題は今まで最も多くの婦人に対して絶対に生殺与奪の権をふるって来ました。貞操は、真に婦人にとっては恐ろしい暴君でした。そして今も尚且つ大多数の婦人に惨酷な十字架を背負わして居ります。
 此の暴君に対する婦人の反抗も事実には行われていますが、しかし今も猶此の暴君に対する公の非議は決して許されないのです。恐らくは婦人解放に努力する人々に最後まで残されるのは、此の貞操問題でしょう。
 貞操問題が、どうして婦人の根本道徳になっているのかと云う事は誰にでも直ぐ答えられそうで、なかなか答えられないのです。何故なら、今日まで世間で此の暴君を大さわぎで擁立している本当の理由と云うものが、どうしても明瞭に説明されないからです。そして、どれ程婦人の貞操が神聖なものかと云う事を朝から晩まで教えている人達でも、それが結婚に際しての一大資格であり、結婚後は良人に対する重大義務であると云う以上の答えは出来ないのです。貞操と云うものそれ自身は、何の神聖な意味も持ってはいないのだと云っても、それに対して反対し得ないのです。
 事実、貞操は女にとっては、其の一生の生活の保証を得る、大切な、結婚と云う経済的契約に際して第一に問題にされる事なのです。そして、それ以外には何等の価値も意味もないのです。男と云う対象がなければ、男の保護を仰ぐ必要がなければ、それは何の問題にもならないのです。
 そして、此の故に私は、多くの婦人論者の注意を其の点のみにもっと集注したいと思います。貞操と云うものが、婦人の上に権威を持ったのは、ただ男と女との間の経済関係に基因します。其の事実が生んだ思想に基因します。婦人が経済的に何等の自由も持たなかった事に基因します。何んの自由も持たなかったと云うよりは寧ろ、女の体は男に重要な一財産でありましたし、今も猶そうなのです。そして現在までに発達して来た財産私有制度に培われた人間の経済思想が、やはり女と云う財産を管理するに抜目のない網を張っているのです。
 女の体が一つの財産としての取扱いをされていると云う、私共婦人にとっては、実に情ない多くの証拠は、現在私共の眼の前に随分沢山ありますが、私は此処に、私共の祖先も持っていたに違いない、そして今日私共の間に猶残されている、女に対する露骨な取り引きの習慣を、より露骨に今猶保存している野蛮人の間の事について少し証拠だてて見たいと思います。


 ルトウルノオの『男女関係の進化』の中には蒙昧人も文明人も一様に持っている男女関係の様々な風習を悉ゆる方面から集めて、興味深い事実を沢山ならべてあります。そして婦人の財産視された最も適切な例、原始社会の掠奪結婚から始めて、服役結婚、売買結婚についても沢山の事実を挙げてあります。『原始社会では、子供の地位は女のそれよりも更に低かった。生れたままの児を殺すのは当然のことであった。両親は、其の子に対する生殺与奪の争うべからざる権利を、遠慮なく行使した。奴隷の制度が出来てからは、子供は本当の商品となった。一言に云えば、家族内の父の権利は絶対的のものであった。「子供に対する両親の此の原始的所有権から、其の結果として、子供を何んの相談もなく結婚さす権利の出て来るのも、全く自然の事である。且つ子供を売買する風習が久しく行われていた所から、婚姻は自然に一商取引として見做されるようになり、斯くして久しく掠奪婚姻と並び行われた売買婚姻が、漸次にそれに代わるようになった。
 掠奪と売買とには、各々其の便不便がある。掠奪には何んの費用も要らない。それによりて男は、自分の絶対的権利の下に従う女房共や妻共を得る事が出来る。しかし、それを行うには危険を免れる事が出来ない。又、一たび成功しても、猶復讐される、或は取戻される、恐れもある。そこで男は、多少の交換価値を払えるようになると、女房を買う事に譲歩した。しかも両親の気まぐれや貪欲には何んの障碍もないので、此の婚姻殊に子供の婚姻には、度々甚だしい無茶な取引が行われた。「ホッテントオト族やカフィル族の間では、牛が交換価値となっているので、娘は中牛か牝牛かで買われる。そして此の商品の値段は、需要と供給との変動によって、いろいろと変わる。ナマクオイ族の間では、此の取引が牡牛一匹と云う極く安い値段で行われていたと云うが、此の値段は更に其の十倍にも増す事があり得るのだ。』「マカロロ・カフィル族の間では、女の父に支払う値段の中には、其の女の産むべき子供の代価までも含まれている。
 中央アフリカのセネガンビアや、ナイガア流域のマンディンゴ族やプウル族などの間では、婚姻と云えばただ娘の売買の事になっている。ティマンニ族の間では、男はしゆろざけ先ず女の親の所へ、棕概酒を一瓶か或は少しばかりのラム酒を持って行く。若し其の要求が容れられれば、其の贈物も受けられる。そして出直して来て、又棕概酒を一瓶と多少のコオラと、幾丈かの布と、幾つかの数とを持って行く。斯くして一切の贈物が済むと、話がきまって、娘に婚姻を申渡す。』『タヒティ族の間では一時的婚姻の結ばれる事があるが、其の場合には、結合の時期の長さによって、贈物の豚や、布や、鳩などの数がきまる。』『アメリカ大陸でも、南の端から北の端まで、此の娘を売ると云う風習が、多くの種族の間に普通の事となっている。レッドスキン族では、一般に女は馬か毛布と交易される。女が白人に売られて、そして度々あるように、やがて棄てられれば、其の両親は再び自分の家に引取って、又何処かへ売る。・コロンビアでは、労働の才能が女の一番高い値段になる。即ち駄獣としての其の才能の如何によって、其の両親に贈られる馬の数がきまる。[北部カリフォルニアのレッドスキン族の間では、娘は他の商品と同じように売買されて、何んの相談を受ける事もない。其の値段は父の許に払われ、娘は買われた馬と同じようにして連れて行かれる。貧乏な買手は金持の買手に譲らなければならない。『ニュウメキシコのハパヨオ族は、其の娘を売るのに、個人間の契約だけでは満足しないで、競売にする。』
 此の娘を売る風習は世界中到る処で行われました。北部アジアの蒙古人の間にも、印度でも、アラビアでも、又ヨオロッパの何処でも且つては娘を商品として取り引きして来たのです。アラビア人の婚姻は今日も尚単純な売買だと云います。
 アラビアの一法律家は極めて明白に、其の契約の書式を公にしている。『斯く斯くの金額にて、足下に我が娘を売却す」「委細承知』又此の法律家は他の場所で次の列く云っている。「女は婚姻によって其のからだの一部分を売る。男は、購買によって一商品を買い、婚姻によって、生殖の畑を買う。」


 これらのむき出しな事実に対して、現代の日本の教養ある婦人達はきっと、あり得べからざる事として考え、必ず眉をひそめられることとおもいます。そして、私共に斯う云う風習が今猶つきまとっている事に気づく人は少いだろうと思います。
 しかし、今日私共の眼前で行われている婚姻の中にどれ程多くの売買結婚があるでしょう。今日でも、どれ程多くの男が『妻を買って』いることでしょう。又、実際に金銭のやりとりはないとしても、結婚のいろいろな形式の中の一つである結納という。ものがどんな意味のものか、又、両親の婿せんさくや嫁さがしがどんな利害をもっているかと云うことも、少し考えれば、直ぐに合点のゆくことです。昔から両親の野心や貪欲の為めにやりとりされた娘がどれ程ありましょう。そして今も尚此の文明国に其の風習が存続していて沢山の若い人達がそれに悩まされているのです。ルトウルノオはその売買婚姻の例をあげた最後に云っています。
 『此の売買結婚の風習は、社会的及び倫理的見地から見て、極めて明白な且つ極めて重大な意義を持っている。即ち、これは女を動産や家畜や物品と同一視した、女に対する深い侮蔑を意味するものである。羅馬法も、此の点に就いては、明かに告白している。即ち其処には、婚姻法と財産法との間に、何等根本的差異を認めてはない。女に対しても、物品に対すると同じく、一ヶ年間引つづいて所有し、若しくは使用すれば、其の所有権を与えられる。そして此の所有は、物品に対しては、usucapionと称せられ、女に対してはususと呼ばれている。此の二つの術語の差異は極めて些少なものである。そして其の事実の間には何んの差異もない。妻と子供とは殊に女の児は実に男の所有する最初の財産であった。そして此の事は、物を所有すると云う事の興味と、其の物を使用し濫用すると云う口実を蒙昧野蛮な人心に植えつけたのであった。羅馬法では、これが民法によって女は男の奴隷となり、財産は持主の使用し濫用する権利となった。そして此の使用と濫用とは、原始社会より今日に到るまで、男を堕落せしめて、平衡と正義との殊に女に対しての其の観念に盲目ならしめる事に与って力あったものである。』
 猶ルトウルノオは、家畜を飼っておくのと殆んど同じ意味で、沢山の女達を女房や妾にしておく一夫多妻の例をも沢山挙げています。そして云っています。『蒙昧社会では、女は独立して生活することが出来ない。女にとっては、独身でいると云う事は、放棄されると云う事と同意昧である。そして此の放棄されると云う事に。直ぐにも死ななければならない、と云う事を意味する。
 アフリカの黒人は、其の文明若しくは蒙昧の程度の如何に係わらず、すべて一夫ー婦の制度などと云うものを夢にも知らない。しかし、此のアフリカに於ても亦、具が好んで大勢の女房を持つと云う事に就いては、性欲の満足はほんの第二義的房は一つに過ぎない。彼等の一夫多妻は主として経済的動機に基く。ガブウンでは、出来るだけ多勢の女房を持つ事が、男の最大野心になっている。男にとっては、何物と異も、これ程の値打ちのものはない。女は土地を耕す。そして男に仕えて、其の食物を持って来る事が、女の厳密な義務となっている。女房は、其の父の許から、合意の保段で、しかも往々はまだ幼い時に、買われて来たものである。その持主たる夫は女房等のする農作の労働には、少しも与らない。男はただ、其の女房等に養われていればいいのだ。されば、男が女房を買うのは、儲仕事の放資にすぎない。従って男は、其の女共を、奴隷として若しくは家畜として取扱う。又、何んでもない事で、鞭で打って、一生消えない創をつくったところで、少しも気にかけない。からだに創痕のない女は、滅多にないと云う事だ。』『最下等の蒙昧人と雖も、猶且つ、猿よりは計数にも富み、将来の事も考えた。人間の最初の奴隷は、又其の最初の家畜とも云えるのであろうが、女房であった。蒙昧人がまだ単純な狩猟人種や遊牧人種であった時でも、猶彼等は、獲物を持ち運ぶとか、火を焚くとか、避れ家を造るとかしなければならなかった。女は果物や貝を拾い集めて来る事に、又いろいろ小さな用事をする事に、極めて巧みであった。且つ又、女は、売る事の出来る、必要に応じては食べる事も出来る、子供を産む。
 そこで、斯くの如き種々なる目的に適した女を、出来るだけ多く持つのは、甚だ望ましい事でなければならない。猶此の野蛮人が農業を営むようになれば、女房は益々有用なものとなる。男は、自分の女房に、有らゆる骨の折れる仕事を負わせる。女房は土も掘る、木も植える、種子も播く、収穫もする。しかもそれは全く主人の為めにである。それに女は、からだが弱いので、男は自分の思うままに取扱う事が出来、残忍な征服本能をも恋にする事が出来る。斯くして男は、或は暴力により、或は得計により、或は掠奪により、或は売買によって、出来るだけ大勢の女房を手に入れる。慶々又、たとえば、姉妹の群とか、或は、年の違う親戚同士の群とかを、一束にして買う。此の年の違うと云う事には値打があるのだ。即ち女房共にやらせる数多くの有らゆる仕事を、年とった女房が出来なくなった時に、必要に応じて年若い女房に代らせる事が出来る。
 一夫多妻の大勢の女房は、最初は互に平等であった。即ち男は其の女房の群を平等に服従させていた。女房共は、それに対して、謀反するなどと云う気もなかった。彼等はそれを全く自然の事と考えていた。
 しかし漸次に、同じ一人の男の女房共の間に或る階級が出来て来た。社会の構造がより複雑となって、王とか、貴族とか、僧侶とか云うものの現われた時に、此の階級も現われて来た。一夫多妻も斯くなれば、多少の制限を加えられる。即ち一夫多妻は有らゆる人々の望む所ではあるのだが、富人と権力者との特権となって了った。此の富人と権力者とは時としては極端な一夫多妻に耽って、遂には其の女房共の群に秋序と屈従とを維持する事が困難になった。斯くして彼等は、一人若しくは数人の正式の女房を置いて、時としてはそれには苦役を免除して、他の女共を監督支配させた。
 此の正式の女房と云うのは、多くは夫が同盟を結んでいる名ある軍人か、若しくは重要な官職にいる人の、娘か、姉妹か、或は親戚のものかで、其の父なり兄弟なりの威光が彼女等を保護している。其の結果彼女等には、他の女房共とは違った人間であると云う心持が起きて来る。そこで自分自身の家を持ちたくなる。自分自身の室を持ちたくなる。皆んなと一群になって生活する事が苦痛になる。』


 しかし、これらの特別な地位におかれて、他の女達の上に主権を持つことの出来る女でも、その所有主である良人に対しては何んの自由も持つことが出来ないのです。
 そして、夫婦関係の様式は、蒙昧野蛮な一夫多妻から多少文明になって法律や宗教の上で認められた一夫多妻制になり、それからもっと進んで一夫一婦制にまで進んでは来ましたが、しかし、女の位置はやはり低いままでおかれて来ました。勿論、一夫一婦にまで来る間には蒙昧人の間で扱われたように全く家畜と同じ扱いよりは、少しは自由のきく境涯に進められては来ましたが、女が、自分ひとりで生活が出来ず、結婚によって一生の生活の保証を得なければならぬ間は、やはり結婚は一つの経済的取であることは云うまでもない事です。
 私達は又、売淫と云う、もっと露骨に女の体が経済的物品であることの証拠になる事を知っています。多くの上中流の知識あり教養ある婦人達は、それを壊しみ憐れみしていますが、しかし多くの良人を持っている婦人達との差異は本当に五十歩百歩なのではありませんか。そして誰が教養ある貴婦人になり誰が売淫婦になるのでしょう?それはただ不平等な境遇の差異のみなのではないでしょうか。


 世其で又、貞操と云うものに就いて考えて見ましょう。
 世の中が文明になるにつれて、最初平等であった人間と人間との間に階級が出来、権力が生れ、道徳が出来、法律が出来、宗教が生れて、風俗や習慣の上に大きな変動が出来て来ます。そして人間の生活が、一般にずっと規則立てられるのです。そして第一に規則立てられたものは、財産に対する権利です。所有権を所有する事です。そして、此の所有権の主張は勿論女の上に充分に及びました。
 蒙昧野蛮な人間の間では、女の所有者は自分の随意に、その女を他人に貸しもすれば売りもしましたし、又、客をもてなすのに女の体を提供すると云う事さえもしました。しかし、若し持主の承諾なしに、他の男に接した場合、即ち姦通は、実に厳重に罰せられました。此の姦通の刑罰についても、ルトウルノオは沢山の事実をあげています。そしてその事実を挙げる前に云っています。「私は今ここに、有らゆる時代と有らゆる人種の男が、姦通を抑圧する為めに企てた主なる刑罰に就いて、少しく説いて見たい。人類と云う種、殊に原始の蒙昧野蛮な人類が、動物界での最も残忍な種であると云う事は、此の研究によって著しく明かにされる。そして恐らくは此の姦通と云う事に於て、人間の残忍と不正不義とが最も著しく示されるのである。蓋しここに人間と云うのは、人類の半ばの男性のみを意味する。姦通が処罰されたと云っても、それは一般に女の姦通のみであったのだ。夫の姦通に就いては、妻がそれを訴える事の出来る罪悪だと云う風に、人間が認めるようになったのは極めて後の事である。此の甚だしい不公平な処置の理由は極く簡単だ。ディドロは、其の『ブウゲンヴィルの旅行記』の中に、オルウをしてそれを云わせている。即ち『男の暴虐が女を其の所有物として了った』からだ。人類社会に於ては、婚姻は一般に掠奪によるか、或は売買によったものであった。或は今猶そうである。何処の法律にでも、既婚の女は、夫の財産として多少公然と見做され、従って極めて優々他の所有物と全く同一視されている。そこで其の持主の許可なくして女を使用するものは泥棒となる。そして人類社会は此の泥棒に対しては極めて厳酷であったのだ。殆んど何処ででも泥棒は殺人以上と見做されていた。然るに姦通は普通の泥棒とは違う。盗まれた物品は受働的なものなので、其の持主は、ただ盗んだ人だけを罰するより外はない。しかし姦通に於ては、盗まれた物即ち妻は有情のもので、夫の財産たる自分の体を侵した共犯者である。それに夫は一般に其の妻を自分の許に置いてある所から、自由に折檻することが出来る。且つ夫は、此の復讐を果すのに、輿論と法律とを味方に持っている。』
 しかし、野蛮人の間では、此の姦通の残忍な刑罰も、男は金を出して済む事があり、
 女は大抵その良人の財産を失う事を恐れるところから生命が助かる事もあります。そ例してそれはただ、何処までも女を財産として観るからです。
 けれど、やがて夫婦関係を結ぶのに本当の原始的な掠奪や売買から少しずつ進歩して女に多少の選択の自由が認められるようになり、一般に合理的な一夫一婦が実現される社会では、そう露骨に女が財産視される事はないようになって来たのです。即ち、一夫多妻制度の男が知らなかった、妻に対する愛着と云うものを知るようになりました。それが自分の所有物に対する執着と一しょになって、やはり妻達の上に盗難のが及ばないような企てを怠らなかったのです。そして、その盗難に対するに、重い罰と云うよりは、輿論と法律を味方にしはじめました。その輿論も、決して間違いのないように、道徳と云う型をつくってそれに無上の権威を持たせました。その上に写教が味方します。斯うして二重にも三重にも錠をおろして女をしまい込んでしまったのです。そしてこれに何にも不満足を云い立てないのが、屈従するのが、女の単一の大事な道徳なのです。これが貞操と云う、男にとっては大切な女に守らせなければならぬ道徳です。そして女にとっては男の保護を得るためには、是非守らなければならぬ道徳です。


 私は悉ゆる人間社会の人為的な差別が撤廃され、人間のもつ悉ゆる奴隷根性が根こぎにされなければならないと云う理想をもっています。そして其の理想から、悉ゆる婦人達の心から、それ自らを縛めている此の貞操と云う奴隷根性を引きぬかねばならぬと主張するものです。
 と云えば、直ぐに男女関係の秩序を乱してしまう事を主張するものだと早まって誤解する人があるかもしれません。しかし私の云うのはそう云う意味ではないのです。
 現在私共の見ている世間は、前に私が挙げたような野蛮な時代ではなくなっています。進化は休みなくその歩みをつづけています。且つて、私共の祖先が為たであろういろんな野蛮な習慣や風俗やそれにそうた法律や道徳の痕跡は、充分に私共の生活の中にもあります。しかし進んだ理知や感情は、私共の生活の中にある悉ゆる不合理を残すところなく駆逐しようと努力しています。そして其の努力は相応に報われて私共の生活は一日一日に向上しているのです。今、私共の姉妹の大半が、まだ奴隷的境涯に満足してはいますがしかし少数の勇敢な人達は此の屈辱から逃れようと努力しています。そして現在私共の知る限り、世界一般の文明国の婦人達は略ぽ男子と同等の位置にまで近づいて来ました。結婚も、もう奴隷契約ではありません。娘達の選択も大分自由になって来ました。
 貞操と云う檻も、女を無理往生に捉えて妻にし、奴隷としていた間は充分必要であったに違いはありません、しかし、人間と人間が信じ合って一緒になったものに何んの必要がありましょう。私が貞操を不必要だと主張するのは、結婚が先ず当人同志の自由合意の上でなくてはならない、と云う事を前提としての事です。貞操と云うものがどんな動機から、どんな事情の下に生れて来て、どんな役目をつとめていたかが本当に理解されるなら、そして女が本当に自由で男と同等な人間として許されるのなら私の此の主張は当然の事なのです。それが決して男を不自由にする事でもなければ、又女を放縦にする訳でもありません。私は思います、若しも此の主張に対して甚だしい不安を感じたり、或は憤慨する人は必ず自分が女に対して持つ思想に不純なものをもっている人間です。守銭奴が金を大事にしまっておくように、女をしっかりとしまっておきたい人です。


 併し斯うは主張しますものの、私はこれが決して多くの人に受け容れられる思想だとは思いません。何故なら私は現在のままで、女の正しい自由が絶対に許されるものだとは信じ得ないからです。そして、その第一の理由は、女が男の奴隷である事から解放されるのが容易な事でないからです。
 蒙昧野蛮な時代からきまっているように、女はひとりで生きてゆくことが出来ないのが原則になって居ります。今日世界の文明国では多数の婦人が男子と同様に働いて自分を養っています。しかしそれ等の婦人達がどれ程『完全にひとりの力』で暮しているでしょう。そしてその職業婦人が果して世界中の妻君の何割にあたるでしょう?いくらどうしても、現制度の下にあっては、多数の労働者と共に婦人は弱者です。経済的には全くの無力者です。
 何んと云っても男の庇護の下に一生の保証を得るのがさしあたっての利巧な方法だと云う事に帰着します。たまたま親の庇護男の庇護を受ける事の出来ない娘達は、働こうとすれば、丁度蒙昧人が姉妹を一と束にして家畜を買うように買ったと同じに、資本家によって牡牛一匹の値の半値位で買いとられるのです。文明も進歩も、弱者には、何の変化も来ないと同様です。娘達は奴隷として酷使される上に、その大切にする『純潔』までも犠牲にしなければなりません。又どれ程立派な伎仰を持った職業婦人でも男の気紛れを吸拒する気概をもった人には充分な報酬は与えられないのです。資本家等は、やはり蒙昧人の傲慢な亭主共のように、彼女の体を享楽し、同時にまたその才能を利用しようとするのです。
 斯うして、考えて来ますと、人類社会はその蒙昧時代が現在の恐るるべき文明にまで、非常な進歩発達をして来ました。そして女の位置もそれにつれて向上はして来ました。しかし男が女に対して持つ力には何の変りも来ないのです。そして女は、その思想の向上からその思想と実際の矛盾の上に大きな窮境が襲って来ています。その窮境に最も苦しむのは自覚した職業婦人です。此の職業婦人の窮境は、婦人問題にとっては実に重大な注意を要する点です。婦人は、男の保護の下にある間は到底真に従属的な地位から解放される事は出来ないのです。そして、すべての考えも決断も何も彼もがやはり従属的な習慣からのがれる事が出来ません。たまたま此の従属的な境地から逃れようとしても、彼女を使役してその金を払うものは、やはり男なのです。彼は勿論婦人の独立に賛成するような顔をしてその技価を出来るだけ安くふみ倒して、その上に充分に恩をきせて使います。その1にどうかすれば、その体までもおかそうとします。結局、婦人は、その労働に規え有ず、その窮境に堪え得ないで、やはり男の庇護にかくれる事を余儀なくされます。
 此の窮境から婦人が救い出されるにはどうすればいいのでしょう?すべての婦人が男の庇護を受けなくても自分の正しい働きによって生きる事が出来るようになるには、どうすればいいのでしょう?それには、私の答えはただ一つしかありません。即ち小数の人々が多数の人間の労力を絞りとって財産をつくり上げる、そして其の財産の独占がまた権力を築き上げる、と云うような不当な事実がある間は、人間は決して真に自由な境涯へはなり得ないと云う事です。財産の独占と云うことが多くの人々にとってたまらない誘惑である間は、とても男も女も自由な気持にはなり得ません。他人の上に勝手に権力をもっているのが偉いこととされている間は、男にも女にも自由は来ません。


 繰り返して云います。道徳も法律も宗教も何んにもない混沌たる蒙昧野蛮の時代から男は主人で、女は奴隷でした。男は所有主で女は財産でした。そして今日の文明でも、女は其の従属的な屈辱的な位置から救い出すことは出来ませんでした。女は今もやはり蒙昧時代からのように、其体を提供して男から生活の保証を得るより他に生きる道はないのです。一人の男に一生を捧げるか、そうでないかの差異はありますが、しかし、女の体が男の野心や金や権力やの為めに自由にならねばならぬ場合が沢山あるのは全く当然な事だと云わねばなりますまい。
 もっとも、文明国の法律や道徳や宗教や哲学やいろんなものが、女のおかれた地位の露骨さを、よほど覆うて弁護はしています。しかし、それは政治、法律、道徳、宗教、哲学、その他、悉ゆる知識がすべて資本主義の為めに働いて、それに都合のいい基礎をつくり上げたように、やはり在る事実に基いて、その庇護の為めに築き上げたものは、その在る事実の本質を少しも変えはしません。
 此の意味で、私は今日実際にある貞操と云う言葉の中には、人によって、いろんな人のいろんな思想感情によって、可なり複雑な内容を与えられている事も充分に知ってはいますが、其等には一切頓着せずに、此の主張をつづけて来ました。私共はただ、そのむきだしな本来の性質を知る事が出来ればいいのです。その動機、その役目を知ればいいのです。そして若し辛抱して下すった読者には略ぼ貞操と云うものが何物かが解って頂いた事と思います。猶又、屢々貞操が経済問題の為めに苦境におとされる理由も不充分ながらも、解って頂いたことと思います。

(一九二二、四、二四)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?