関曠野『プラトンと資本主義』11

「レトリケー(レトリック)の根本原理は、ただ言語だけが存在し、知られ思考されることができ、他者に伝達されうる、と言うテーゼに他ならない。それを哲学者のロゴスに対抗するレトリスムの原理とすることができる。
その第一は「思考の共有」と考えられたコミニュケーションになるものは原理的に不可能な事柄であり、存在しない、と言うことである。すなわち言語は言語について語るのみで、直接我々の思考について語りそれを他者に伝えるのではない。確かに人間においては、言語は世界の意味を了解し他者との合意に達したいと言う欲求と不可避に結びつき、われわれはこの欲求から語る。しかしわれわれは正当な欲求に駆られつつ愚者ないし狂人として語ることしかできない。あらゆる技術は原因と結果、目的と手段の間に、明快で一義的な、反復可能な連関を物質の明証性を伴って打ち立てるものであるが、言語と言う技術だけは分裂と混乱を増大させる。こうして事実の世界においては、言語は理解と合意の契機であるどころか混乱と誤解の条件なのであり、結局バベルの塔の寓話は言語そのものについての真理なのである。」

「第二のテーゼでは、もし広く世に流布している強力な言説があるとすれば、その言説はまさにその強力さのゆえに全くの虚偽である、と言うことである。すべての言説は原則として等価である。ゆえに特定の言説が多数者の支持を得て強力になっている場合には、多数者が自己欺瞞に陥っているか、愚かにも一部のものに欺かれている可能性を疑ってみなければならない。
「弱い議論を強くする」ことによってレトリケーは民主制に対するその機能を果たす。
レトリックとは、過ち多き死すべき者でありながら、普遍性を尺度として話すことを言語より命じられた人間の悲劇的な自由を実践することなのである。そしてレトリックも、人間を操る言葉の力を暴露し、語る人間の不安を明るみに出すと同時に、人間は語ることの試練において彼の自由を具体的な一つの能力として享受していることを示すのである」

「レトリスムの最後のテーゼは、人間はロゴスではなくエトス(倫理)とパトス(情熱)から語る、ということである。語る人間は機会と惑わしの支配する根本的に不確実な世界に住む。そこでは誰も自分の言っていることの意味を知らないし知っていることを説明できない。
外見上は首尾一貫した言説が、退廃や自己欺瞞といった心に重大な過ちを隠蔽していることもあり得る。しかしまた、厳しい論証だけが、人を真正な感情と知覚へ導く。
言説のテストによって究極的にテストされるのは語る人間のエトスとパトスの真偽、節操の厳しさと感情の真正さである。人間は尤もらしい言説の蔭で容易に倫理的ご都合主義と偽物の感情の中に転落する。しかし結局、語る事は語る者のエトスとパトスによる自己決定を示し、彼が何者であるかをさらけ出させる。そして証拠や取り繕いの論証を逃げ道とせずに、勇気と情熱によって語られる言葉は神的であり、死すべきものの最高の可能性から発する。故に論戦で競われるのは話者のエトスとパトスであり、誰が正しい者であるかを決裁するのも聴衆のエトスとパトスである。」
関曠野『プラトンと資本主義』

絶対的な真理を語り、その抽象的真理による支配を試みる哲学に対し、レトリックは、その都度の真理を語ろうとする者の自由な倫理と情熱にかける。

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