関曠野『プラトンと資本主義』8

「ホッブス以来の近代西欧の自由主義的政治理論は、政治とは力の応酬を法の下での妥協と合意の追求に転ずることであり、民主制とは万人の合意(コンセンサス)による支配権の行使を理想とする政体のことであると主張してきた。結局この理論は、各人は自己の利害を正確に算定でき、また世界のうちには万人が合意しうる単一の真理が存在していると言う二重に非現実的な仮定に立脚した上で、政治を利害紛争とその最善の調停の問題に還元する。しかもこのイデオロギー的虚構の下に、合意の政治理論は物理的暴力を法と制度による暴力に置き換える。市民は法の支配そのものに対しては合意することしかあり得ず、したがって制定法が維持している現存する社会構造をその外枠において甘受するほかないとされる。こうして、プラトンとアリストテレスからホッブスを経てヘーゲルに至る西欧の合意の政治哲学は、制度のテロリズムをもたらす。ポリスの民主制は暴力を論争に置き換え、言語の主権を確立した。反対に近代の政治論は論争を法と制度の暴力に置き換え、その帰結たる官僚制化した大衆民主制下の世界では、言葉の力と本性の広範な荒廃と破壊が起きる。」
関曠野『プラトンと資本主義』

まさにいま日本において、マスメディアという擬似公空間において言葉の力と本性の広範な荒廃と破壊が進行中である。
言葉の再生を!

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