関曠野『プラトンと資本主義』13

「資本の権威と権力は合意(コンセンサス)による支配を最良の選択とみなす。すなわち、原子化した個人の行為の動機を条件付けることにより自動的に実現される支配の内面化こそ、資本主義に最も適合した支配の様式なのである。しかも市場社会における普段のアノミーの脅威を考慮すれば、支配の内面化の法則は資本主義にとって必然的なものとされ得る。

大人は基本的に官僚人であり、万人が多少ともそうである。彼のその官僚制化した社会では、官僚人こそ倫理的正しさと知性の公認された範型、人間の特性の尺度、(有能で誠実な、信頼できる人間の見本である)そして官僚人を特徴づける抽象的な匿名の組織への自発的な服従と内面的な隷属は、ヘーゲル以来、近代的自由とか現代人の人格的自由とか言われている。

近代世界の社会的官僚制は学校教育なしには考えられないものである。学校教育は個人の社会化の過程そのものを官僚主義的な観点に管理し操作することによって、個人の市場社会への内面的な統合を実現する。
資本主義体制の下では、現在経済の中心がその伝統的にあった家族と地域社会から巨大な法人企業に移行すること、行政手段が匿名の官僚機構に集中すること、そして家族と地域社会に変わって学校教育が教育活動を独占する事は、全く同時的な、事実上1つの事柄なのである。」
関曠野『プラトンと資本主義』

組織への自発的な服従と内面的な隷属とは、明治国家が「教育勅語」等に代表される教育によって行ったことだ。それは富国強兵にとって必要不可欠な国家事業であった。安倍政権が「教育勅語」を持ち出すのは全く同じ原理であるが、歴史は繰り返す、しかし2度目はパロディとして、であり、その時代錯誤ぶりは、大いにバカにし笑い飛ばすべきことである。まじか!?って。

でも彼らは「復古主義」であろうとするのか。なぜなら、新しい時代の新しいヴィジョンを見出し得ないがゆえに。それが原因であることを彼らが自覚した時、彼らは私たちとなり、日本人がひとつになって新しい時代への本当の意味でのチャレンジが始まる。

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