関曠野『プラトンと資本主義』12

「市場経済が孕む二律背反的状況は、大規模な政治的危機を意味する。
第一の問題は、すでにホッブズの「リヴァイアサン」と言う著作が示唆していたように、市場経済には、それ自体の中から何らかの共同体の政治的構造を発展させるような契機が一切欠けていることにある。しかも市場経済を支配する利潤のための利潤の追求は、政治社会の形成に無能無力であるのみならず、本質的に反社会的なものである以上、共同体内の政治的=集合的要素を破壊してしまう。
資本主義社会に常に潜在する危機とは、階級闘争ではなくアノミー、社会的無秩序状態なのである。こうして野放しの利潤動機に基づく市場経済は社会構造の崩壊を招き寄せ、それは資本主義の存続自体さえ危うくするに至る。
しかも第二の問題として、厳密な資本計算に基づく近代資本主義的な経営行為ほど社会の政治的安定を要求するものはない。
近代的ビジネスは、単なる存続ではなく、持続的成長を発し、その傾向の継続性と計画性は、単に打算的な利潤動機を凌駕するほどの成長と拡大へのこの衝動に基づいている。そして経済体制としての資本主義はこの衝動ゆえに、単なる法と秩序の維持を超えて、可能な限り一元的に統合され、資本計算に何の狂いも生じないような社会を資本のユートピアとして追求する。ほかならぬのの一元的統合への要求こそ、ブルジョワジーをして「国民経済」及び言語、文化、歴史によって同質的に統合された○「民族」と言う観念の創始者たらしめたのである。世界市場の存在なしにはこうした観念は生まれようもなかった。」

「現在体制としての資本主義は、その本来の動機と目標においてはあくまでも非政治的なものでありながら、しかもその存続と成長の条件としては最大限に政治的な社会構造を要求せざるをえない。資本主義は政治的に無能であるばかりか、利潤動機による社会的崩壊を引き起こす。しかもこの体制は、可能な限り効果的に統合された政治社会と言う、本来自由で活発な共同体だけがその政治過程を通して実現し得るものを、厚顔にも己の利害からして社会全体に強要するのである。そして近代的官僚制だけが、この資本の二律背反的な要求を1つの擬似解決によって満たすことができる。ビジネスと国家の官僚制は、論争的な政治過程抜きで、集団の一元的統合を外見上実現することによって、資本主義の唯一の政治的な道となる。すなわち官僚制は資本の政治的無能力を専制権力へと逆転させ、資本の政治化を実現する媒体である。官僚機構が体現する専制権力は資本それ自体の無言で匿名の抽象的な権力であり、そこでは盲目で気まぐれな市場経済が究極の指令者として強制と制裁を執行している。
こうして近代的官僚機構が姑息な努力と普段の緊張によって実現する規則正しく統制された一元的秩序は、本来の政治過程の冷笑的な制度的代用品、自由な共同体だけが実現する共感に満ちた共同行為の精妙で悪魔的なパロデイに他ならない。」
関曠野『プラトンと資本主義』

資本主義がグローバル化し、世界単一市場となることで、世界全体を一元的秩序資本の秩序「儲ける」ことが覆う。その原理が私たちの精神を支配する。積極的にその精神の支配を受け入れ、模範的奴隷になるか、その精神の支配にあらがう不良的奴隷になるか、あるいは好待遇の奴隷か悪待遇の奴隷であるかの違いはあるにしても、わたしたち全員がその原理の奴隷であることは変わりない。その奴隷根性がわたしたちのこころに歪むを生んでいる。


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