関曠野『プラトンと資本主義』7

「ギリシア人は、言葉と行為の分裂と対立と言う近代人の業病を知らなかった。常に具体的な行為の現在に生きる人間の視点から、彼らは世界自体を生起する出来事と考え、彼ら自身の行為をも世界の出来事の1部とみなした。それ故、ここにおいては「自我」とは行為の原因となる「主体」ではなく、行為する個人自身をも含めた世界の出来事の目撃者、普遍的証人であるにすぎない。あらゆる個人は、常に他者と世界と共にあり、彼自身に対しても観客なのである。
だからこの行動主義的な民族にとって、言語は「主体」が己の観念を表現するための道具なのではない。言語は状況から独立した抽象的な観念を表示するものではなく、話者自身を含めた世界の中で生起する出来事について証言するものである。この他者に対する証言と言う働きにおいて、言語自体も具体的な行為の1つなのである。」
関曠野『プラトンと資本主義』

言語論として非常に面白いと思う。自分自身も含めた世界で起きている出来事について証言することこそが本当の言語なのだ。語ること自体が世界への積極的行動なのだ。世界と私について私は証言する。自分の観念や考えを組み立て、自我を表現するという現代において優勢な語りとは全く違う普遍性の響きがある。

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