関曠野『プラントと資本主義』3

「あらゆる個人は俳優にして観客である。そして誰も自分が何者であるかを知らない。それ故誰も自分の主人ではなく、自分が何を言い、何を考えているのかを自分1人で知ることができない。言語と思考と存在が常に己の内で一なる完結した意味を持つ「主体」ーーそのような「主体」によるモノドラマはどこにも成立したことがない。人間は己の主人でさえない以上、かつて「主体」になるものは事実として存在した事は無い。ただ時間として支配する世界、絶えず変容しながら同一にとどまり全体として現前する世界だけが、唯一の真実であり、底知れぬ根拠のうちに安らぎ、己を熟知し、力強く己を支配する主人公である。
世界のこの荘厳な支配を目撃し、賞賛し、畏敬すること、世界が不断に繰り広げるドラマに敬虔に参与すること、そこに人間の持ち分がある。言葉と都市とテクネーと死すべき生命は、そのために彼に与えられているのである。世界とは劇場である。世界と言う大いなる出来事が、誇らしくも晴れやかに、何の弁証も交えずに己を示すだけの劇場である。この世界の真理は、劇場の真理である。そして劇場の真理はポリスのギリシア人の真理であり、また一切の時代を通じて、都市と政治的自由の真理である。」
関曠野『プラントと資本主義』

関さんは、ブッダが菩提樹の樹の下で悟った真理が、ギリシアにおいては、ポリスという劇場世界において政治的自由として実現していたことを見抜いたのか。あるいはそうではなくその政治的自由とは人間的真理とでも呼ぶべきものなのか。

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