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歩いていたことから生まれる企画

25日目(4月28日)
とうとう、100日チャレンジも4分の一となった。素晴らしい。
私にとっては、とにかく「書く」ということでここまでかけたのは素晴らしいのだ。

「書く」と同時に「歩く」ということも続けてきて、やりたくなってきている企画がある。

自分の住んでいる街で、「自然や土地とのつながり」「人や街とのつながり」「自分自身とのつながり」をとりもどす。
やることは、自分の住んでいる街を歩き、自分の場所に出会い、そのプロセスの中で感じたこと、受け取ったことを語り合う。ただそれだけ。

ただただ、その街を感じる。しばし、日常の考えることを脇において、心のままに、感じるままに任せて、ゆっくりと歩いてみる。道を歩いたときの足の裏の感覚、庭先の花、吹いてくる風、それに乗せられてくる花の匂い、木々のざわめき、木漏れ日、鳥の声、子供達の遊ぶ声。
それらが自分の周りに現れてくるままにまかせて、ゆっくりと歩く。

そして、何か惹かれる場所、それに出会ったら、それが自分の場所だ。

自分の場所は、街を流れる川かもしれないし、すぐ隣の木かもしれないし、地元の神社かもしれない。
しばらくそこでただぼんやりと過ごす。時間もやるべきことも全て忘れて。

だんだんと感じる力が高まってくると、ふと、目に入ってくるものだったり、出来事だったり、脈略なく思い浮かぶ言葉だったり、感情だったり、印象に残るものがある。それは自分にとって何かのサイン(メッセージ)かもしれない。

そんな時間を過ごした後、オンラインでつながった人たちで、その体験を分かち合う。体験は一人ひとりのものでありながら、どこか自分の中にもあるような、不思議なつながりを感じることになる。

普段、自分の住んでいる街は、何か生活をするための場所で、気がつけば、職場にいくための最寄り駅へいくまでの道や、日常の買い物をするスーパーへの道だけを行き来していて、その土地や人のことは何も知らない状態になっていたりする。

自分の場所があるということは、そことのつながりを持てている(感じられている)ということだ。
どんな人にとっても、自分や人との間、土地(の自然)に自分の場所(つながり)があるといのは、健全な心の土台になるもののように思うのだ。

世界のグローバル化がすすみ、より遠くへより早く、つながっていくことが、世の中の流れで、それに個々人も自然と合わせていたように思う。
それはそれで、技術は発達し、人間一人でできる範囲を超え、刺激的でこれまでにない多様性の中でどんどん新しいものが生まれてくる素晴らしいものだ。
一方で「私」を中心とした、人間一人でできる範囲の同心円の中は空洞化しているのかもしれない。

それが、ここ最近歩いていることで、満たされた感覚から気づいたこと。

鋭意企画中、楽しみだわー。

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