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なぜ、サッカーにおける戦術マンは野球には現れないのか。

筆者:クレ(@analyze_foot)

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「戦術と気持ち、どっちが大事なの!?」

こういった類の問いかけは往々にして冷静に考えてどちらも大事というのが真理であるケースが多い。

詰まるところ、両輪駆動である。

戦術は、すなわち選手のやる事(タスク)である。
気持ちを出して頑張れと言われても自分の仕事が何か分からないデスクの上では、何も出来ないのと同じである。

また、逆も然りで自分の仕事がしっかりと振り分けられているのに何もせずにただ踏ん反り返っていてもこれまた何も出来ないのと同じである。

やることがあるから気持ちを出すところが見つかり、気持ちがあるから仕事を思い切り出来るのである。

どちらが上とか下とかいう話ではなく、お互いに相互作用して最高のパフォーマンスを出そうというのは集団行動での基本中の基本である。

「私と仕事どっちが大事なの!?」と問われても、君がいるから仕事が頑張れるし、仕事を頑張っているから君と楽しく幸せに過ごせているのだ。

そうは分かっていても、どちらかを白黒つけようとする人がほとんどなのは承知の上である。

しかし、ふと疑問に思うのである。

「戦術を語るから嫌われているのだろうか。」

いや、だからそうじゃんという声が聞こえて来そうだがまだブラウザバックしないでほしい。

なぜそう思ったのか。

ここで日本の代表的なスポーツの一つである野球を例に挙げてみる。

野球は良くて、サッカーはダメ

野球で打順やサインなどが失敗に終わった際、人々は批判しないで応援しようよと言っているだろうか。

野球自体も好きでよく観ている自分からすると答えはNOだ。少なくともYESではない。

老若男女問わず
「あそこでバントはない。」
「彼を4番で使わないなんておかしい」
「この打順じゃ繋がらない」
「あの配球はない」

こんな批判やら議論やらがシーズン中には、日常茶飯事である。

これは立派に戦術を語っていると言えるのではないだろうか?

しかし、誰も「選手を駒だと思ってるのか!」など憤慨することもないのである。

一方サッカーでは、

彼がリングマンでボールを前に運べていたのに!」
「前からのプレスで数的不利になっているから、運ばれ放題だぞ!」

こんなことを言うと、
頭でっかちが来た!」
「批判しないで応援しろ!」

となることがしばしばである。

日本人に馴染みのある野球とサッカー、なぜここまで違うのだろうか、薄々勘付いてる方もいるだろう。

理由は「複雑さ」にある。

個々の局面をゆっくりたっぷり味わう野球

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野球ではそういった批判が多くないのは文化だから、だけではない。

野球は、大まかに言えばピッチャーが投げる、バッターが打つ、守備者が打球を追う。

このフェーズを繰り返す。しかも、どこを見ればいいのか非常に分かりやすい。

ピッチャーVSバッター、バッターの打球を追う守備。

1VS1のマッチアップをゆっくり味わえる。

ピッチャーが投げるとこを見れば良いし、キャッチャーミットから配給の意図も視認できるスピードでゆっくりと確認できる。

バッターは言わずもがなである。

更に、試合展開もゆったりとしているのでスマホでデータを見ながらも試合を同時並行で追うことが出来る。

また、打率や出塁率と言った分かりやすく受け入れやすい指標があるので非常に個々の評価をしやすい。

それに攻めている時間は、決して点を取られないし、攻守の入れ替わりも3アウトでチェンジと分かりやすい。

またスタメンでフル出場すれば、バッターは3打席は立てるのである。

では、サッカーだとどうだろうか。

多くの人が目まぐるしいスピードで動き、展開するサッカー

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サッカーは、野球とは対照的に個々のマッチアップをゆっくり見せてくれることはない。

また、11VS11の非常に複雑なマッチアップで攻守の入れ替わりも頻繁で目を離した隙にゴールが決まることも珍しくない。

例えば、現欧州王者のリバプールが守備ブロックを組んでいると気を抜いてあくびをしているともうマネがゴールを決めているのだ。

さらに、好不調が図りづらいのも特徴だ。

先の説明にある通りで、野球であれば打席は回ってくるしほとんどの場合勝負をしてもらえる。

しかし、サッカーではボールが回ってくる保証は一度もないのである。

例えば、ドリブルやパスが上手い選手には当然ボールを持たれたくないので、パスコースを遮断するような対策も行われるし、守備に走り回されることもある。

味方のカバーで守備に走らされ、ヘトヘトになった選手が調子が悪いとは思えない。

役割によって、残せる数字の振れ幅が極端なのも特徴である。

前線の選手でも、点を取る役割になっていないことがあるのだ。

レスター時代の岡崎慎司がそうだろう。彼は黒子に徹し、2トップでありながら中盤とヴァーディを繋ぎ、前から相手のディフェンスを追いかけ回す役割を担いあげく点も取っていないのに60分に交代するのである。

しかし、レスターのサポーター、選手達にラニエリは彼の動きを絶賛し、不可欠な存在として起用し続けていたのである。

野球の場合でも選手が特殊な役割を持つこともあるが、非常に見つけやすい。

このようにサッカーは、人数の多さや展開の速さに加え役割の多様性も重なり複雑で戦術を語ろうとする難易度が少々高いのである。

それ故に諦めて投げてしまい、耳を塞ぐような事態が起きているのではないか。

理解出来れば嫌わない?

これは何もサッカーの戦術に限った話では無いが、人の脳は理解出来ないものを拒むように出来ている。

お年を召した方が頭が固く映るのもあれは気遣いや思慮深さというメッキが剥がれて人間の本質が顔を覗かせたにすぎない。

戦術が理解出来ないから、拒み批判するのである。

だからこそ、その理解を手助けするのに一役買いたいと思っているしそうすれば1人でも多く戦術好きに変えられるのだと思う。

あとがき

野球の批判は、文化だからでは?という意見もある気がするのだが個人的には単純さ故に意見が言いやすく、それが繰り返され文化として醸成されたのではないかと考えています。

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