見出し画像

勉強してから選択するのか、選択してから勉強するのか

どっちでもいいんです。
だけど、前者の選択肢しかないのが学校教育。

例えば
ウクレレのコード表を頭で丸暗記してからウクレレを手にして弾くのか、
まずウクレレを手にしてからコード表をみながら指で押さえて身体で覚えながら弾くのか

どっちでもいいんです。
だけど、私は丸暗記してからウクレレを手にしても弾ける気がしない。
コードを覚えるというのは、紙に書いてあるものを頭で覚えるのと、押さえる場所と指の配置を身体で覚えることとは全く違うから。


そんな例え話しは暮らしの中にたくさんだと思います。

そういうことを含めて、今日は、こちらの動画を観て思ったことやまとめを書いてみます。

日本の教育は問題だらけ
優秀な子どもは海外に流出の危機

ひろゆき&成田悠輔 in 東大

ゲスト・柴山昌彦氏(元文部科学大臣)

バランスの取れた学力と社会を大切にするためには、一定程度のグローバルミニマムというか、みんなが最低限押さえておかなくてはいけないことはちゃんと押さえさせる、そういう教育を引き続きしなければならないという考えが今なお強い。
ひろゆき氏

バランスを取らなくてはいけない根拠はどこらへんにあるんですか?

ひろゆきさんらしい言い回し、出ました!
でも、ホントにそう。

バランスよく学ばせるデメリットを直視することが、日本の教育の課題を見つけるヒントになりはしませんか?

成田氏

不登校を選択している、
学校から離脱する若者たちを助けるような仕組みを国はどうやったら作れるだろう?

一般的な不登校の子がこれと同じこと言うのと、成田さんみたいな学歴ある人が言うのとで、大人たちは違う回答しませんか?
と思ってしまう。

行政の考える所謂「不登校問題を解決」という考え方の多くは、何かがズレてる。
(不登校問題を解決しようとする時点で逆方向に進んでるというか)
当事者でもそれを上手く表現できないのに、多くの行政は、ホントの意味でこれを受け止めて形にするのが非常に難しいだろう。

もちろん、学校以外の子どもの居場所は必要なんだけど、本質はそこじゃない。
じゃあ本質って何と言われても、一言で言語化するのが難しくてもどかしいので、こうしてnoteに綴っている訳です。

ひろゆき氏

社会モデルとして、大学に行かないとホントに幸せになれないのか?
例えば、フランスのパン屋が表彰される仕組み。


確かに日本だと、表彰となると、主催者がお金集めて利益得る広告的な仕組みが多いですよね。
フランスのパン屋さんの表彰とは全然違いますが、d&departmentさんのd47museumが思い浮かびました。

広告のためのセレクトじゃなく、リスペクトがこもったセレクトで、たくさんの作り手さんの可能性を広げておられるし、同社のロングライフデザインの考え方は本来当たり前に大事なこと。この消費社会の中で消されてしまいそうな価値を拾い上げてくれるような気がしています。

と考えると、
今の学校の勉強って消費社会を象徴していて、今だけの御都合主義で、「将来が心配だから勉強を」と言う割に、本当の意味での長い目でみていない勉強だなって思うんです。

それでそこから離脱しただけで
不登校は大変。
不登校は引きこもり。
不登校は将来困る。
不登校はゲームばっかり。
不登校は病んでる。
みたいな感覚に陥るのは何故?

柴山氏
私なりの考えを言うと、義務教育というのは子どもたちが例えば高校以降色んな所に進む時、どの方向に進むこともできる、自分のあらゆる可能性にチャレンジできるような、将来の自分で進むであろう方向からバックキャストして、中3の段階で少なくともこれは学んでおかなくてはいけないこと。Aという進路、Bという進路、Cという進路、どの進路にも進んで行けるような可能性をみんなが押さえておくべきレベルというのが、この義務教育で押さえる授業の内容だと私は考えています。

それももちろんあるけど、逆にやりたいことやってみて、自分に何が足りないか知り、そして学ぶやり方を義務教育に採用することはできないだろうか?

例えば、

簿記の資格とりました、で経理の仕事に就きました。でも全然向いてないと、やってみて気付きました。
(私のこと。数字は好きだけどクリエイティビティを見いだせなかった。)

日本って、そんなことだらけじゃないですか?
そして、16〜18歳は高校、19〜22歳は専門学校、短大、大学、というレールがあって、それを終えたら勉強から解放されると同時に次の瞬間、即就職。
みたいな感覚。

勉強とは、教科書、ノート、鉛筆、忍耐。
それが揃って、それをこなして、やっと人権があるかのような刷り込み、思い込み、多くの大人たちは頭の片隅に無いですか?
又は、自分も我満してそうやってきたからお前も一応やっとけ、的な思いが頭の片隅に無いですか?

それを隠して、表面では
「可能性や選択肢を広げるための基礎知識」
となるような感じは否めない。

例えば
着付けやヘアセットを好きでやっていたら、人から頼まれることが増え、30歳で理美容専門学校に入学。
(私のこと。やってみてから必要性に迫られて学んだというか資格を取得したパターン。)

でもさ、30過ぎてからじゃなく、それが10代の早い段階で出来ていたらすごくないですか?

トップクラスのアスリート、アーティストの子だけじゃなくて、別に何か熟練してなかったとしても、それができたらすごくないですか?

やりたいことがあって、そこから学ぶってスタイルで子どもがやっていたら、「そんな遊んでないで勉強しなさい」ってなるの何なの?

遊びに見えてもいいじゃない。
打ち込めることに出会う機会を大人たちが摘んではいないか?と。

私は10代のうちはそんなこと出来なかったけど、大人になってからは【やってみてから学ぶ】スタイルで仕事してます。
そういう、自分で選んで自分らしく生きる感覚を学生時代は否定しないとやってられなかったのかもしれない。
だけど、大人になって、その価値観や足枷を外すのって大変なのよ。
だったら最初から、どちらのやり方もいいよってしてくれてたらと思うのですよね。


やってみてから、
仕事してみてから、
学ぶ

可能なら多くの子どもたちに、若いうちにその感覚を知っていて欲しい。
だけど、学校に行くとその感覚を消されてしまうような。

そして、
勉強して資格を取っていざ仕事!
で、なんか違った・・・
やっぱり私は何やってもだめなんだ・・・


となるのが日本の教育の終着点だったりすること、少なくないじゃないかな?

ということで
頭で覚えてからウクレレを弾ける人は稀だってことなんですよ。

でも、どちらを選んでもいいってことを、学校教育で子どもたちに教えてほしいものです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?