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死を待つ町。

引っ越してから一か月と少し経った。
間もなく、祖父が亡くなった。

私は実家に半分住んでいる。
窓を開けると瀬戸内海が見える部屋。


「東京の反対は尾道」
という言葉通り、そんな対を感じている。

母は近所の人に愛されている。
それは共同体のよう。

母が自分の父が亡くなった事を話すと、
皆が厚く慰めていた。
母は毎度涙していた。


町は随分様変わりした。
空き地が多くなった。
古い家は更に寂しさを増していた。

隣で再開発で建てられた集合住宅に新しい夫婦達や子が住み始めていた。
意外にも人はそれなりに住んでいるようだ。

それでもここは住民の殆どが死を待っている。
二人の祖母もそうだ。


父方の祖母は私の家の近くの介護施設に今は住んでいる。
認知度合いが深まり、耳がかなり聞こえないため、筆記で会話をする。
祖母は今回特老施設に移動になる事が決まった。
海沿いの死を待つ人の為の施設だ。

この町にはかの様な施設が沢山ある。
まだ恵まれていると、いう事なのだろう。


母はコロナ渦の時に実母が半身不随になり、介護施設に入った。
その当時、義母も自力で排泄が出来ない状態になっており、
パートで仕事もしながら、義母の介護もしていた。
その時に母は、
「何故自分の母を介護出来ずに、他人(よそ)のお母さんの介護をしているのか、もう心が壊れてしまう。」
と言った。

その時に義母の親友が、
「子供の幸せを考えて、施設に入りましょう。」
と説得をしてくれたことがきっかけとなり、祖母は施設に入る事になった。

この町は住人のほとんどが60歳以上だ。
死を待つ人の方が多い。
実際に死を身近に感じている人が多い。
昔からと言えば、そうなのだ。
昔から死が近い場所だ。

戦時に興った町で、造船が有名だった。
今は閉業が決まり、解体されている所だ。
かの工場地帯と瀬戸内の景色が見える坂が好きだった。
錆びて無骨なパイプが剥き出しになった工場は、
どんな工場地帯の景色より好きだった。
それは死の歴史を感じるからだった。

生きるを待てる程の幸いがあるだろうかと思っている。
私は日々両親が老いてゆくこと、
家族が亡くなってゆくことを、
それをただ受け入れるだけを、
人生で一番鮮烈に感じている。

これから先、自分が動かなければ、祝いは無いと。
幸いは広がらないと、突き付けられていると。

同級生が結婚した。
その時に一番印象に残ったのは、その場に彼女の祖母がいた事だ。
そして祝いを共にしたことだ。

私は当時既に祖父と両祖母は施設に入っていた。叔父も施設にいた。
祖母に祝いを見せることが出来なかった事がとても辛く感じた。
そして日々介護でやつれる母を、
日々老いる父を、
祝いの姿を見せられないのかと、深い哀しみを感じたのだった。

一人暮らしは楽だった。
眼を背けていた。
でも一人で生きていけない事が、生きている内に分かった。
心と身体は限界を超えていた。
実家に帰った時、家族は老いていた。
いつまでも生きていられないのだと、祖父は逝った。
目の前の事だけで精一杯だった。
今でもそうだ。
でも未来はもっと精一杯だと言われた。
最早生きれないと。


待つ程の命は、私には出来ないだろう。
両親が亡くなるまで待つのだろう。
その先の事は今も何も考えられない。

死を待つ事の出来る事は、
かくも、幸い哉。


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