2022 12/23

ここ1ヶ月で創作が全くできていない。できていないと言うのは、創作をしようとしていないのではなく、創作をしようしようと実際に足掻いて作ってもいるのに、何かを作れている実感が全くない、と言うものだ。カッスカスの中身から、カッスカスの文章を絞り出しても何にもならない、そんな感じ。でも私にとっての創作(=人間の創造)は自分の内面と実体験からしか生み出せない気がしているので、自分の内面をより見つめるために日記を今日だけ書いてみる。
作り出した人間と一緒に生きないと、私にとっても創作にはならないのだ。
それができていないので、今はなんだろう、動かないし喋らないフィギュアを量産している感じ?やだね

この1日限りの日記は全て、創作ができない劣等感と焦りと絶望感から少しでも目を背けて、自分は書ける人間なんだ、と信じるためである。えへ



夕食はナポリタンだった。
ナポリタンといえば、私が今年の春に恋人と神谷バーで食べて以来、めちゃくちゃ美味しさに気づいた料理だ。
中学生の私が母に「ナポリタンあんまり美味しくなくて好きじゃないんだよね」と言ったのを思い出して心が痛んだ。その一言があるまではナポリタンはよく出ていた気がするが、思えば母のナポリタンを食べるのは久しぶりな気がした。
罪滅ぼしをしたくてわざとらしいくらいに「美味しい」と言ってみた。実際にも母のナポリタンはめちゃくちゃおいしかったのだが。

すると母は、「そうやってゆいみたいに素直に口に出して褒めてくれると嬉しいんだけどね。」と答えた。「今日パパに、ナポリタン美味しい?と聞いたら、ん〜ん〜とかなんとか言って素直に美味しいって言わなかったんだよね。ああ言うところ、素直じゃないんだよね。」と母は父の悪口を始めた。
父の悪口は苦手だ。
「言いたくないのかな、天邪鬼なのかな。」母は続けた。「私に言いたくないんだろうな、美味しいって。」
私は「ママに甘えてるんじゃない?」とか見当違いなことを言ってその場凌ぎをしていたけれど。

母と父は結婚して20年になる。
今までの20年間、私は彼らが本心をわかちあっているのをみたことがあるだろうか。
そう考えると、あくまで家族という社会の中の、自分の役割を徹して、たまに会話するくらいの、そういう関係に見えることの方がはるかに多い気がする。
母の孤独を思ってしまう。
母は人と話すのが好きだ。20代の頃に急に仕事をやめて渡豪するくらいの野心もあって、自分でも自分の人生を切り拓きたい人だと思う。
それでいて、今は20年も、家庭という小さな社会の中に閉じこもっている。私と、妹と、父に、美味しいご飯を作ってくれて、美味しいという言葉がない日も毎日ご飯を作ってくれて、そういう優しさで、この家族を支えてくれている。
そんな母の孤独と苦労に私は20年間目を向けただろうか。いや、きちんと向き合ったのは今が初めてかもしれない。
母の決して言わない孤独を、私はきっとずっと感じ続けていたのに、自分が母を押さえつけている存在であることから目を背けたくて、それを見ないで、テレビを見て爆笑する母だけを信じていた。そうしたかった。

私が父の悪口を嫌うのは、母のそんな孤独な人生を顕著に感じさせるからだと思う。もちろん私は父のことが好きなので、父のことを悪く言われるのが嫌だというのもある。しかしそれ以上に、パートナーとも本心を分かち合えず、娘に、たまにその寂しさを漏らすことのできない、そんな母の姿を見るのが嫌だったんだろう。恋人同士なら愚痴ることもある。しかし、20年も連れ添っている、家族という手錠で繋がっている、そんな人間のことだ。
二人が本心から愛し合えていたらどれだけ良いだろうかと思う。寂しい。

だから私はずっと誰かを愛したり信じたりするのが怖いし、誰かと家族になることも怖い。
愛する母のように、誰かに縛られるのが嫌なのだろう。しかし現実問題愛しい人はいるわけだし、その人のことは好きだし、ご飯は作りたいし、家族にもなりたい。そんな感情と、家族とか結婚とかそういうものに縛られたくない。そんな感情がここ数ヶ月はずっと拮抗している。


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