恨み系信者の皆様へ

クソ長いし、価値ある文章になっているかは分かりません。
また、「人のあり方において、Aならば必ずB、ということはあり得ない」ことを先に宣言しておきます。例えば「創価学会の人は熱心」とか。「そのような傾向があったり、あくまでも私から見るとそのような人が目立つ」という程度の意味です。

ここに書くことは、屠蘇さんが書いた記事(日蓮教団はなぜこんなにも分裂するのか)を読んで思ったことです。彼女は「日蓮教団」というくくりで論じていますが、私はもう少し狭く「日蓮正宗の信徒さん/創価学会の会員さん」くらいの範囲を中心として書きます。実体験とか実感を交えているので非常に主観的な表現ですが、お付き合い頂ければ幸いです。

私の立場

私は15年くらい前に創価学会の活動を辞めています。大学生の頃に、地元の幹部なり責任者に教義上の問題点を指摘し、それ以来、声を掛けられなくなりました。親との関わりもあり退会の意思を明示していないため、いわゆる「非活会員」と自らを位置づけておりました。

ところが最近「規約上で私はすでに退会扱いとなる」という情報を目にしました。現場レベルでどうなっているかは知りませんが、規約上は元会員ということになります。私は知らぬ間に元会員となっていたと。

どこかのタイミングで退会届を出すことは、私が楽しみにしていたイベントでした。でも、先に規約で手を打たれているのだから、この楽しみは消滅したということで受け入れることにします。何か他の楽しみを見つけよう。

問題意識の素

話は私の子どもの頃に遡ります。貴方がそうであるのと同様、私もかつては純真無垢な可愛い子どもでした。

小学生になった頃だと記憶していますが、突如「池田ラブ、日顕ヘイト」の情報がシャワーのように浴びせられました。親を通じ、小学生向けの機関紙を通じ、あるいは会合で見せられる映像を通じて。池田氏へのラブは以前からだけど、日顕氏をヘイトするというのは衝撃でした。

日蓮正宗(阿部日顕管長・当時)VS創価学会(池田名誉会長)のドロドロした争いです。裁判もありましたし、相手に対するプロパガンダ的な攻撃もありました。ここでは、どちらが悪いとかは議論しません。

もう一度書きますが、その頃の私は純真無垢な可愛い子どもだったのです。私からすれば、日顕さんと池田さんは信仰上の父母みたいなものです。その2人が突然仲違いし、離婚すると言い出したわけです。後に池田氏は著作の中で「両親は仲良くすべきだ。父母の仲が悪ければ、子は自らが引き裂かれたような想いをする」と言っています。

池田さん、その通りっすよ。あなたの言う通り、私の心は引き裂かれましたよ。信仰レベルで。親は池田氏を師匠としたかったようで、連動して私は創価学会に籍を残すことになりました。

日蓮正宗から見れば破門、創価学会から見れば独立となったこの騒動ですが、以降も創価学会は日蓮正宗の教義を流用し続けます。私が組織から離れた辺りからは、徐々に独自路線を歩んでいるようです。

日蓮正宗や創価学会との関わりについて、私の中では一旦は完了しています。今は他派も含めた日蓮教学というものに少し興味を持っていますが、私はすでにあの時のピュアな私ではありません。引き裂かれた心の傷は、純真な心と共にどこかへ行ってしまいました。世の中、傷つくことなんて他にもっとありますからね。

上記は以降の話を理解して頂きたいために書いた自己紹介みたいなものです。私が傷ついたことはどうでも良いのですが、以降に書く問題意識の原点ではあります。

恨み系信者という存在

詳しくは各自で調べてほしいのですが、それなりに仲良くやっていた日蓮正宗と創価学会が対立し、1つの講組織に過ぎなかった創価学会が独立しましたよと。そこに至るまでには色々なドロドロがありましたよと。

その過程の中で「恨みベースの信仰」というものが創価学会に発生しました。仏壇に置いておく「ご祈念カード」のようなものには、「一家和楽の信心」などの綺麗な言葉に並んで「日顕撲滅」というのが記載されていました。

創価学会員は、南無妙法蓮華経という題目を唱えて何かを祈るということが日課になっています。「自身に降り掛かった困難を突破したい」とか、「幸せになりたい」とか、あるいは「○○さんの病気が良くなりますように」とか。基本的には無害な祈りです。少し気持ち悪いと思ったのは「池田先生ご夫妻のご健康・ご長寿」とか「池田先生が乗る飛行機が揺れませんように」とかですね。気味こそ悪いけど、ここでは無害の範囲内だとしておきましょう。

それらの祈りの中に「他者の撲滅」という、あまりに恐ろしく危険な香りのする項目が追加されたのです。撲って滅するですからね。これは強烈です。祈りだけでなく、実際の活動でも「信仰者以前に、人としてそこまでやるか?」的なものもありました。今はそこについての言及は控えます。

創価学会における過去の歴史を見てみれば「敵を作って発展する/組織を引き締める」というのは伝統芸みたいなものなのですけどね。何にせよ、この「日顕撲滅スタイル」によって「正々堂々と他者を恨んで祈る会員」が増えたことは想像に難くありません。祈るというか「呪う」ですね

この呪い系信者ですが、当然のことながら現在も創価学会に残っています。絶滅危惧種と言えるほど少なくはありません。また、呪い系信者が日蓮正宗に改宗したケースも多くあります。

そのような経緯を経て何が起きたか?ご存知の通り「他者を見下し貶めて呪い、地獄に堕ちるぞと脅迫してまで信仰の正当性を主張する人」が量産されました。あくまでも仮にですが、その方々を量産型クズと呼んでみましょう。

語呂が良いので量産型クズとは書きました。世間一般的にはクズに見えるでしょう。でも、彼らは本当にクズなのでしょうか?私はそうは思いません。彼らの多くは後天的に呪いスキルを身に着けたのですから。呪いが日課になれば、それはスキルを超えてその人自身の行動原理になります。

私もその方々の心理が少しは分かります。彼らから見れば、自身の信仰は正しいものなのです。それは主観的に正しいのではなく、客観的かつ絶対的に正しいものです。「客観的かつ絶対的に正しい」なんてのは論理的に成立しないと思うのですが、彼らの中ではそれが成立していることになっているのです。

問題なのは、彼らが信仰や教義にしがみつくだけではなく、それを他者に強いる点です。説き伏せる、ではなく強いる、です。客観的に証明できない事柄を、さも客観的に証明できているかのように主張して自らの正義をぶつけます。私はそれを強いると呼びます。そして、ぶつけること自体が正義であるとの立場から、相手に対し「地獄に堕ちるぞ」と言っても何ら問題ないと思っています。問題ないどころか、むしろ良いことをしているくらいに思っているかも知れません。

また、例えば日蓮正宗においては「同門同士で争ってはいけない」という決まりがあるので、信徒同士の話し合いによる自浄作用は期待できません。

結果として、インターネット上の掲示板、Youtube、Twitterなどでは今日も下品で香ばしい言い争いが続いています。私はその有り様が情けないと思うし、大嫌いです。

恨み系の心のうち

この「恨みをベースにした正義の主張」という問題の根は中々深いものがあります。簡単に解決されることはないでしょう。それなりに熱心に信仰していた頃の私を召喚して、心の中を言語化してみましょうね。

【熱心だった頃】
・私は教義に一点の誤りのない信仰を保っている
・私はその信仰によって、いま幸せになっている
・だから、これは他者に広めるべきである

ここまではまだOKなのですが、上記に加えて、

・そんなにも正しい信仰だから、誤りだと言われるのは絶対に許せない
・批判的な言葉に触れると、胸がゾワゾワする
・しかしそれは信心と学習が足りないからだ
・そう、この信仰には一点の誤りも曇りもないのだから大丈夫

という想いが生じる訳です。「胸がゾワゾワする」と書きましたが、不安・恐怖・悔しさ…そういったものが入り混じった感覚です。こんな感覚はない方が良いのですが、何せ「正しい信仰」がベースになっているので、上手いこと解決できません。

信者としてそこから逃れるための対処法は2つです。1つは信仰を強めることです。これについては後述します。
対処法のもう1つは、学習です。例えば、組織が発行する書籍に助けを求めます。多くの宗教で同様のことが生じるのかも知れませんが、そんなものに頼っても、本当の答えは得られません。得られるのは、一時的な安心感です。
本当に安心感と言えるならまだ良いのですが、「安心感であると無理やり自分に言い聞かせる」といった類のものです。しばらくすれば消えてしまう、煙のようなものです。酒に逃げるのと構造的にはそう変わらないと思います。

屠蘇さんの記事にある「うちの南無妙法蓮華経は他とは違います(なぜなら正統だから)という優越意識」の一因でもありましょう。しかし、そんなことを声高に叫んだところで、不安と恐怖と悔しさは、明日もやってくるのです。恐怖の無限ループです。

ここまで書くとはっきりするのですが、昔の私と同様に彼らは「自分の信仰が正しい」と心底から思えているのでありません。「正しいと思いたい」という、儚い願望を持っているに過ぎないのです。

この無限ループから逃れるためには自分で気づくしかないと思います。他者がどれだけ優しく諭しても、素直に理解できる人は1割もいないんじゃないですかね。

このように根深い問題であると私は思いますが、少しだけ希望があります。

嫌な現実にどう対処するのか

「恨み系信者が量産された」という現実は、ご近所を見て分かるかもしれません。あるいは、顔の見えないインターネットでは余計に「恨み系信者」が目立つことから実感できることと思います。先程も書いた通り、日蓮や法華経の名のもとで口汚く罵り合う現実が私は大嫌いです。

しかも、これまた前述の通りで、外部の者が恨み系信者に何を言っても基本的に伝わりません。同じ日本語を使っていると思うのが間違っているのかも知れません。

ではどうするのか?

そんなクソみたいな現実が嫌いだから関わりたくない。そういう訳で、ずっと日蓮法華的な界隈とは距離を置いていました。それが自分にとって健全だと思っていたからです。実際、距離を置いた期間の自分の人生には深く満足しております。

満足はしていたのだけど、ふと「最近の日蓮法華界隈はどうなってるのか?」と思って作ったのが@hokkebu1というTwitterアカウントです。クソみたいな現実はクソみたいなままでしたが、2ちゃんねるの時代とは違い、私は一筋あるいは何筋かの光明を見出すことができました。

クソがクソでなくなるかも知れない、という希望です。

「他者を貶め、堕地獄とかいう下品な言葉を用いてまで自分を保ちたい人びと」つまり恨み信者をたくさん見る一方で、「わざわざ恨まないマトモな人もいる」という希望です。日本も人口の多い国ですから、考えてみたらマトモな人間もいるのは当然のことなんですけどね。実際にTwitterをやるまで気づきませんでした。

私が言うマトモな人というのは「自己の信仰を正しいと思っているが、いたずらに他者を貶めず、切り分けるべきを切り分けて話せる」くらいの意味です。それ以外が全て異常だとは言わないけれど。重要なことは「言語化出来るかどうかは別として、何らかの確信を心底から持っていればこそ、わざわざ他を貶めるようなことはしない」ということです。

このような方々は、1人ではありませんでした。2人、3人…もっといます。変な人や変な意見を批判することに終始するだけでは特に価値は生まれないと考えています。時間の無駄だし、「恨む人を恨む」ということは、結果的に自分が恨む人になってますからね。そこはもう、一旦放置で良いじゃないかと。

それよりも、マトモな人同士でつるんだ方が何か価値のあることができるんじゃないかと思っています。分派は仕方ないとしても、何らかの形で肩を組めないものかと。

試みたこと

そのような中で、色々試してみました。Twicasもそうだし、Zoom会議に参加したのもそうですね。で、1つの可能性としてDiscordというアプリによる一種のサークルを作ってみました。法華部というものです。興味ある方は、ご連絡ください。これ自体に価値があるかは分からないけれど、そのような「日蓮門下による何らかの協業」として、幾つかの試みが始まっています。

直近では、水谷進良先生主催の勉強会(教団を超えた立正安国論理解のために)というのも予定されています。

それらの試みの中ではっきり分かったのは、「私が何かを試みなくても、若い人たちが日蓮門下同士の新しい関係性を構築するだろう」ということです。これを検証できました。だから、上記サークルとかを私は今後も楽しむけれど、すでに得られた現在の結果には非常に満足しています。関係してくれた、また、これから関係してくれる全ての人に感謝申し上げます。こういうのはね、とりあえず感謝してるって言っておけばね。丸く収まるから。

で、貴方はどうするの?

長かったですね。ようやく本題です。紹介したサークルや勉強会や記事は良いものだと思っているけれど、その宣伝が目的ではないのです。

ここまで読んだ方。
特に日蓮正宗・創価学会・顕正会の方。
その中でも「自宗が批判されるとゾワゾワしちゃう。やり返さないと不安になる。他宗派を攻撃していないと気が済まない。」という方へ。

貴方が他宗攻撃でハァハァ興奮して疲弊するだけの時間を過ごす間にも、他派のあり方を学びつつ、自分の信仰を見つめて確信を深めてる人がいるんです。

別に良いですよ、他派批判が本当に心底から楽しいなら。
別に良いですよ、他人の堕地獄を宣言して本当に満たされるなら。
でも、ここまで読む時点で貴方はそこに問題を抱えているのでしょう?解決し難い問題を。貴方を呼び出すフィルターの為にシコシコと長文を書いたようなものです。ここまで来たならあと2分、私に付き合ってください。

自派における謗法というものが何なのか、それは僧侶が守るべきことなのか、在家には許されたことなのか、義務なのか任意なのか。それらを一度ちゃんと確認してください。そして「自分のやっていることが本当に自派の正しいあり方なのか? 余計なことをしていないか? 下手したら巡り巡って自派を貶めていないか?」これをよく考えてみてはいかがでしょうか。

本当の本当に心底から信心に確信を抱く人ならば、いたずらに他者を貶めることはしません。誰に何を言われようとも、揺らぐことなく本尊と題目に向き合ってますよ。信仰の正しさを人としての振る舞いで示してますよ。そういう人がいる事実に目を向けてください。堕地獄宣言だなんて論外だと分かるでしょう。そんなのは自信のなさの裏返し。みんな分かってますよ。薄々、貴方も気づいているのでしょう?

私は上記のゾワゾワに耐えられず、信仰から逃げましたよ。サーッと。
だけど、貴方は違うのでしょう?私みたいな宙ぶらりんにはなりたくないのでしょう?私は貴方のその姿勢を尊重しますよ。だから申し上げます。

貴方の信仰は、言語ごときで否定されてしまうような、そんな脆いものなのですか?誰かが異なる信仰をしているだけで影響を受けてしまう、そんな弱いものなのですか?教義上の論理矛盾だとか、学術的な調査結果だとか、そんなもので不安に陥るようなものですか?

違うでしょう。自信を持ってくださいよ。教義上の悩みや疑問はあるでしょう。それはそれで学べば良いじゃないですか。教義は教義、学問は学問。それで良いじゃないですか。悩みや疑問を恨みのパワーに転換して、堕地獄だなんだと下品なことを叫ぶ。それは何の解決にもならないですよ。

はい?何ですって?「何を偉そうに。当の日蓮大聖人が堕地獄を言ってるじゃないか!」ですって?

あのー…。貴方は日蓮大聖人なのですか??

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