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カルティックカルトック

はじめに

「カルトっぽいから新宗教はダメ、新宗教は怖い」的な見解を良く見るので書く。
あと、noteが使いやすくなったらしいのでテストを兼ねて書く。

①そもそも、カルトの語をどういう定義で使ってるのか?
②カルト的な何かって、新宗教に限らねーよ?
が気になっています。
今回は②について。

※とりあえず、ここでの「カルト」は「熱狂なあまり、世間的な常識と乖離した価値観に至る様子、または至らせる教え」くらいの意味で使います。

古きにたずねてみよう

早速ですが、新宗教云々ではない、古い宗教の典籍を読んでみましょう。

これは大乗経典の涅槃経(曇無讖訳)の引用です。
※漢文の後に適当なザックリ私訳も書いときます。以下同様。

佛告迦葉:「…見有破戒壞正法者,即應驅遣,呵責舉處。若善比丘見壞法者,置不呵責驅遣舉處,當知是人佛法中怨。若能驅遣呵責舉處,是我弟子,真聲聞也。」

仏は迦葉菩薩に告げました。
「戒を破り正しい教えを破壊する者を見たならば、その者を追放し、責めて叱り、その罪を指摘して処分しなさい。
善良な弟子が教えの破壊者を見たにも関わらず、その者を放置したとしましょう。責めも叱りもせず、追い出しもせず、罪を指摘し処分することもなかったとしましょう。そのような弟子は仏法の中の仇であると知りなさい。
教えの破壊者を追放し、責めて叱り、その罪を指摘して処分することができたとしましょう。それこそが私の弟子であり真の声聞なのです。」と。

大般涅槃經卷第三 壽命品第一之三

この箇所は立正安国論等にも引用されているので、日蓮関係者はご存知かも知れません。

要するに「仏の教えを壊す者を許すな」ということですね。過激と言えば過激です。
しかし、許さないとは言っても用いるのは基本的に言論だけということになります。暴力ではないので、現代的な価値観でもギリセーフかなと。

というわけで「やっぱり仏教は暴力的な教えではないよね〜」と言いたいのですが、この少し後の箇所を一緒に読んでみましょう。

佛告迦葉菩薩:「善男子!譬如國王、大臣、宰相產育諸子,顏貌端正,聰明黠慧,若二、三、四,將付嚴師,而作是言:『君可為我教詔諸子,威儀、禮節、伎藝、書䟽、校計、算數,悉令成就。我今四子,就君受學,假使三子病杖而死,餘有一子必當苦治,要令成就。雖喪三子,我終不恨。』迦葉!是父及師得殺罪不?」

仏は迦葉菩薩に告げました。
「善き弟子よ!例えば国王や大臣、宰相が自分の子どもを育てるとしましょう。顔はイケメンで利発。そんな子どもが4人いたとします。この4人を教育するために厳しい教師をつけ、親は教師にこのように依頼します。

『先生、私のためにこの子たちを教育してください。立ち居振る舞い、礼節、図画工作、書道、計算や算数を、全てしっかり修得させてやってください。私のこの4人の子どもが先生の教育を受ける中で、厳しい教育のせいで3人が病になったり死んだとしても、残った1人だけは必ず修得させてください。3人の子を失うことにはなりますが、私は決して先生を恨みません。

迦葉よ、この父と教師とは殺害の罪を負うことになりますか?

(迦葉菩薩は答えました。)
「不也。世尊!何以故?以愛念故,為欲成就,無有惡心,如是教誨,得福無量。」
いいえ、世尊よ!なぜならば、愛する心を起因としているからです。教育内容をしっかりと習得させるのが目的であって、どこにも悪意がないからです。このように教えさとすならば、計り知れないほどの福を得るでしょう。」

大般涅槃經卷第三 壽命品第一之三

ここで言う教育とか修得というのは仏教の修行を譬えています。
みなさんは、読んでみてどう感じましたか?

この箇所はある種の比喩であって、殺人を肯定することがこの経典の本意では決してありません。
しかし、この箇所を根拠に殺人を肯定する教義が生まれてもおかしくないと私は思います。
古い経典なのに、人をカルト化させるに十分な表現だなと。

私たちは、似たようなことを過去に経験しています。オウム真理教です。

彼らが用いた経典は上記の涅槃経ではなく後期密教経典なのでしょうが、そこには確かに殺人に関する記述があります。
現代人的にはかなりエゲツない表現がされていたりもします。

だからと言って、実際に殺人をするかどうかは別の話ですよね。

そもそも仏教は不殺生戒を備えています。
仏となる可能性を潰してしまうので、殺人を肯定することは決してできない。
殺人はダメ、これが仏教としての原則でしょう。

しかし、文脈はどうあれ経典内には殺人を示すワードがたまに出てきます。それを悪用したオウムの実例もあります。

ダメなものはダメとはっきり言おう

特に日本の仏教関係者は「経典に何が書かれていようとも殺人はダメ!暴力はダメ!」を言えねばならないと私は思います。

突き詰めると、それは先師先達や信仰上の先輩を否定することになり得るので、都合が悪い場合もあります。
そんなら、そこに目を瞑って殺人を黙認しますか?

先師先達がどうあれ、先輩がどうあれ、ダメなものはダメと言うべきと私は思います。

「ウチは伝統派だからカルトじゃないよ」ではないんです。
「ウチにもカルト化する要素がゼロではない。だけどカルト化はしません」を言うべきなのだと思います。

仏教に限らずですが、「人を熱狂させる、カルト化させ得る要素」が古い経典の中にあるからです。

つまり、宗教である以上はカルト的な何かが他人事ではないということです。

名誉のための追記と結び

私は、ギリギリ日蓮関係者と言えなくもないので書かせて頂きます。

日蓮という人は過激に見られがちですが、彼のとった手段は全て言論です。言ってる内容が激しかろうが何だろうが言論です。暴力ではありません。

反対派の仏教関係者によって暴力・流罪といった難に日蓮や弟子。中には殺された方もいます。
しかし、そういった暴力や殺人への対抗手段は暴力ではなく言論でした。

他方、仏法上の文句を言われたことを理由に、暴力や殺害という手段を用いた人たちが存在したわけです。
法という大義のためには殺人・暴力を用いても構わない−−上記の涅槃経の記述を地で行ったとも言えるでしょう。
彼らは良いことをしたのですか?悪いことをしたのですか?

仮に経典の記述に反するとしても、先輩の悪口になるとしても「暴力・殺害したのはダメだ」と言えなきゃいけないと思うわけです。
「仏教的にどうなのか、祖師的にどうなのか、説明は上手くできないかもしれない。だけど暴力殺害は絶対にダメだ」と。

それができないなら、例えばオウムに対して文句言えないよな、と。
それができないなら、カルト的な何かによる被害なんてなくならないよな、と。

「うちは伝統宗派なのでカルト的な新宗教とは別ですぅ〜」
みたいな見解をチラチラと目にしたので書きました。

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