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読書日記 キプリング

「ミセス・バサースト」 岩波文庫 橋本槇矩訳

キプリングは言わずと知れた「ジャングルブック」の作者だ。改めて読んだときには文体に驚いた覚えがある。暗譜している楽曲を演奏しているような文章だった。

彼はインドのボンベイで生まれ、イギリス本国の寄宿舎学校で教育を受けている。当時はスエズ運河はなかったので、インドとイギリスの行き来にはアフリカ大陸南端の希望峰を回る航路をとる。ケープタウンには彼の家が用意されていた。写真はケープタウンから南下した所に在るサイモン湾で、ここには海軍基地が今もある。左端に見えるのが軍港だ。ケープタウンとの間に鉄道が引かれているが、この作品の場面はこの地に四人の男が集まったことから始まる。

 この小説を初めて読んだのは文庫が出版された時だった。正直言って読みにくかった。焦点の合わせ方がどうもうまくいかない。
語り方が技巧を凝らしている。これに気がつかなかった。
 語り手は「私」なのだが、「ミセス・バサースト」については何も知らない。彼女について語るのは他の人物だ。「私」は、「語り手」であり、他の人物の話の「聞き手」でもあるという二重の構成をとっている。また会話には彼らだけの了解事項があって話が飛躍しているように感じる部分もある。この台詞の裏には多分こういう考え、行動が有ったのだろうと補いながら読むのがポイントかもしれない。

語り手の「私」は、アフリカの最南端の希望峰に近い軍港の在るサイモン湾にやってきている。この日英国軍艦のペリドット号を訪問する予定だった。ひと足違いで提督の艦は海軍基地から出港してしまっていた。
 ケープ・タウン行きの列車は午後五時までない。幸いケープ植民地鉄道会社に勤めている友人のフーパーに出会い、天蓋のある貨車に乗り込み時間を潰すことにした。内陸部で故障車両などを調べて帰ったばかりのフーパーは書類仕事をし、「私」はビールを飲みながらまどろんでいる。
 海浜で風に当たって涼をとっていた船乗りたちも貨車にやって来た。一人は「私」と旧知の仲のパイクロフトで、もう一人はアグリット号副艦長のプリチャードだ。「私」は彼らにフーパーを紹介する。パイクロフトとプリチャードの二人もビールを飲みながら昔話をする。
 同僚からの詐欺にあってヴァンクーヴァー群島の無人島を歩きまわった話、軍法会議にかけられた話、熱病で死んだ同僚の話、軍隊生活から脱落していく男たちなどの話をする。その一人で女好きで艦隊から逃げ出した兵の話に移る。するとパイクロフトは女に躓き道を外れてしまうのは年齢に関係ないと話し出す。彼の頭には一人の男の名前があった。ピンときたプリチャードは、あと一年半で年金をもらえたのに棒に振った軍人のことだなと答える。
 クリックとあだ名で呼ばれるその男は軍務を果たした後に許可なく奥地に向かって帰らない。四ヶ月ほど前のことだ。自分も奥地から帰ったばかりのフーパーはぐっと興味をひかれる。気になりクリックと呼ばれる男の人相を尋ねる。プリチャードはその尋ね方が気に入らなくて怒りだす。フーパーが当局の者か、或いは密告でもするのかと思ったのだ。「私」とパイクロフトがとりなす。フーパーには別の関心があった。
 「私」はクリックと呼ばれる理由をパイクロフトに尋ねる。任務遂行中に事故に遭い下の歯を4本無くしてしまい、そのせいで喋るときに入れ歯が浮きあがって音がするということだった。それを聞いたフーパーは再びチョッキのポケットに手を入れて何かを触りながらどんな入れ墨をしていたか尋ねる。フーパーの関心はプリチャードの目には怪しくうつり、再び不機嫌になる。
 「私」はクリック=M.ヴィッカリーが逃げ出した理由をパイクロフトに尋ねる。にやりと笑う彼を見て察しをつける。「女は何者かね?」すると名前は言わず「オークランド近くで小さなホテルをやっていた女」だと答える。聞いて驚いたプリチャードの口からでたのがミセス・バサーストの名前だった。若くして未亡人になり再婚せずに小さなホテルを経営している。軍の士官だけの宿泊施設だ。
 プリチャードは10年で三度しか会ってないのに彼女を擁護する熱弁をふるい、ミセスバサーストの人となりを説明する。
信用するとなるととことん信用して見返りを求めない。宿泊客の好みは忘れない。びっこのアヒルに餌をやることも蠍を踏み潰すことも躊躇わずできる女だ。
 パイクロフトも印象を述べる。
歩く姿勢、話す言葉、捉えどころのないが深い眼差し、たった一度でも目にすれば忘れられない女性だ。そして女性の魅力に溢れている。
プリチャードはフーパーに尋ねる。「そういう女と関わり合いになったら?」
「逃げだすか、心奪われておかしくなってしまうだろう」
フーパーの答えに然もありなんと頷くプリチャード。
 次にクリック=M.ヴィッカリーについてパイクロフトが話し出す。
ヴィッカリーはハイアラファント号でパイクロフトの上役だった。ケープタウンにくるまでの航海中にオークランドとミセス・バサーストの話を一二度聞いたことがある。多分二人の間には何かあったはずだという気がしたが、詳しいことはわからない。しかし失踪前の状況を知っているのはパイクロフトだ。年の瀬に入港したハイアラファント号の軍人たちはケープタウンに繰り出した。すぐ飽きてしまう町だがこのクリスマスにはサーカスの一行がケープタウンにやって来た。
 ヴィッカリーがサーカスの入り口でパイクロフトを見つけると前列の上席に座らせる。本来の演し物の前に当時できたばかりのシネマを見る。ヴィッカリーは目を引くような事があったら言ってくれと念を押す。「故国のニュース」とめいうったフィルムにロンドン・ブリッジなどが次々と映っていく。近づいてくる特急列車が銀幕いっぱいに映ってパディントン駅に入ってくる。客車のドアが開いて乗客が降りる。荷物を運ぶ二人のポーターの後ろからミセスバ・サーストが現れた。歩き方もあの眼差しもまさに彼女だ。後方の客席から不意に声が上げる。「あ、ミセス・バサーストだ」
 この日から連続5日間ケープタウンまで出かけサーカスの前列に陣取り五分ばかりのフィルムを見る。10秒にも満たないミセス・バサーストとの逢瀬を重ねて、その後はパブを梯子し最後の列車がでるまでの3時間あまりを飲み歩いた。
フーパーはパイクロフトにヴィッカリーの様子を尋ねる。
パイクロフトは「パラノイア(偏執狂)」という言葉を思い出す。頭のおかしい艦長や副艦長から思い出した言葉だ。
「ミセスバサーストはイギリスで誰かを探している様子だ」と言うと、ヴィッカリーは「俺を探しているのさ」と愛情に満ちた口調で言う。ところが、「この話はここで打ち切りだ。この話題を持ち出せば人殺しが起きる。あんたが殺される確率と私が殺される確率は五分五分だ。だが殺されるのも悪くないと思う」精神状態を察したパイクロフトはサーカスが去った後のヴィッカリーに気をつけて距離を置く。
ヴィッカリーが艦長に面会を求めた。異例の1時間以上にも及んだ。予想外にもヴィッカリーは艦長室からにこやかに出てきた。ある要塞に残った弾薬の回収任務を任された。それも単独行の命令だ。
ヴィッカリーに頼まれて上陸し駅まで送る。彼は嬉しそうだ。「サーカスは明日からウスターに移って興行だ。また彼女に会えるんだ」パイクロフトは我慢の限界だと伝える。ヴィッカリーは誤解を解こうと言う。「俺は殺人を犯してない。妻は出航した後六週間後に産褥で死んだ。少なくともそこまでは俺は潔白だ」パイクロフトはその後どんな事があったんだとたずねる。「あとは沈黙あるのみだ」と言葉を残し駅の中にっ入っていく。
 ヴィッカリーは要塞の弾薬を貨車に積み込まさせ任務を完了したのち行方不明になる。
聴き終えてプリチャードはミセス・バサーストは関わりはないだろうと言う。パイクロフトも何か悪い裏切りがあったとしたらヴィッカリーの仕業だと断定する。彼の義歯のカチカチとなる音が今も耳にこびりついていると話す。
 フーパーは右手をチョッキのポケッ手に入れて話し出す。一ヶ月前病気になった補修係の代わりに奥地に行ったが、その際北に向かう二人の浮浪者を探して列車に乗せてくれと依頼された。彼らはマホガニーの森を通り抜ける線路の引き込み線のところで待っていた。一人は立ってもう一人はしゃがみ込んでいた。森に雷雨があって二人とも真っ黒に焼け焦げて炭になってしまっていた。立っていた方の男は義歯をしていた。入れ墨について尋ねたがその男は王冠と錨の上にM. V.と彫ってあった。パイクロフトはその入れ墨を見たと言う。プリチャードは両手で顔を覆う。パイクロフトは「残りのビールを飲みほして、彼が死んだことを乾杯してやりたい気分だ」と話し、この話は終わる。

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