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辛味 -前編-

自分は昔から辛い食べものに耐性がない。

辛いものが嫌いだとか、全く食べられないというわけではないのだが大抵は大汗かきながら涙目で食べる羽目になる。柿の種などは大好物だが一袋食うのにもヒイヒイいっている。それでも食べるのはやめないあたり、辛味を完全に拒絶しているわけではないのだろう(と思いたい)。
同時に僕は辛いものを平然と食える人に対してある種の羨望のようなものを抱いている。巷の辛味否定論者たちは口をそろえて「辛味は味覚じゃなくて痛覚」「自らすすんで辛い物を食べてる人は異常」など散々な言いっぷりだが僕はそこまでは思わない。僕の脳味噌は非常に単純な構造をしているので「辛いものバクバク食える人すげー」と思ってしまうのだ。いつかそんな風に自分もなってみたいとさえ思っていた。自分にできないことを平然とやってのける人は僕にとってはすべて憧れの対象だ。

そんな人たちに少しでも近づくために僕は一度「らしくない」挑戦をしてしまったことがある。
二年ほど前に昔からの友達に勧められた近所の中華屋に二人で行った時のことだ。その店は店員の方も料理人の方も全員が中国人で、本格的な中華料理を味わえるというのを売りにしている店だった。
友人は中でも「特製麻婆豆腐定食」を勧めてくれた。これが特に美味しい料理だということだった。しかし同時にこう念押しされた。

「相当辛いから注文するときはそれなりに覚悟しろ」と。

瞬間、戦慄した。
その友達は僕の知り合いの中でも指折りの実力を持つ「辛味マスター」だったからだ。ランキングにすればベスト3には確実に入っているだろう。『刃牙』でいえば『範馬刃牙』でのピクルくらいの強さだ。

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そんな雄(おとこ)が警告を促すほどの麻婆豆腐…。食べる前から僕の額からは滝のように汗が流れた。ここは大人しく五目炒飯か青椒肉絲を頼もうと思った。

しかし、だ。

友人が警告をしてまで勧めてくれた本場の麻婆豆腐。ここで食わないという選択肢はありうるのか、と咄嗟に考えてしまった。その友人とは小学校からの付き合いなので僕が辛いものが得意ではないことなど彼は十分に知っていた。その上で尚、彼は麻婆豆腐を勧めてくれた。彼はきっと心からその麻婆を食べてほしかったのだろう。だからこそ彼は僕に警告をしてくれたのだ。友情に亀裂が入らないように僕に辛くない料理を勧めることもできたはずなのに。
それに常日頃思っていたことじゃないか。「辛いものを食べられるようになりたい」と。願いを現実のものにするため、行動を起こすのは今しかないのではないか。おそらく友人は僕に挑戦の場をも与えてくれたに違いない。そう思った。
友人と軽く視線を交わすと意を決して店員さんを呼び止め、注文をした。

「麻婆豆腐定食を一つ、お願いします」

注文を受けた瞬間、店員さんの表情が強張った(ような気がする)。それほどの相手ということか…。注文を受け終わると店員さんはそそくさと厨房に姿を消した。ちなみに友人は唐揚げ定食と角煮炒飯を頼んでいた。いや麻婆食わないんかい。

一分が一時間にも感じられる緊張の空間で僕らはひたすら料理が運ばれるのを待った。交わす言葉は少なかった。
20分ほどして先に友人の料理が来た。僕の緊張など意に介さず友人は唐揚げを頬張った。じゅわっ、という心地よい音があたりに響く。めちゃくちゃ美味そうじゃないか…。シンプルに腹が減ってきてしまった。
やや遅れて麻婆豆腐がやってきた。いよいよか、と思い襷の緒を締める思いで運ばれてきたお盆をのぞき込むと先ほど決めたはずの僕の覚悟は容易く打ち砕かれた。

後編へ続く

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