見出し画像

我、無冠の帝王にあらず

世の中は様々な「賞」に溢れている。ノーベル賞、アカデミー賞、芥川賞、エトセトラ…。
「賞」とは偉業を成した人間に許されるものであり、「賞」を得た人間を、人々は称え、尊ぶ。人は人の成した偉業を忘れないために「賞」を与えるのだ。当たり前だが誰にでも許されるようなものではない。

自分はこんな「賞」とは無縁の人間だと思っていた。何かに真剣に打ち込んだ経験もなく、突出した才能もない自分にとって、「賞」とは憧憬の対象そのものだ。
しかし、自分にとっては過ぎたものである、とも心のどこかで思っている。そもそも何かの賞をとった記憶なんてまるでない。
何かに憧れる心の場所と、それを諦める心の場所とは隣り合っているようで実は遠い所に位置しているのかもしれない。

しかし、案外そう安易に決めつけるものでもなかったらしい。
先日部屋の掃除中に、見たことがあるようなないような感じの、古びたハードカバーの本を見つけた。気になり読んでみると、詩集だった。僕の住んでいる区の小学生が書いた詩をまとめたものらしかった。それも誰彼構わず集めた、というわけではなく審査員による選定のもと、それぞれの地区の代表となる、優秀とされた作品を決め、それらの作者に賞を与える形でまとめられていた。
何気なくページをめくっていると、ある詩が目に留まった。
僕の書いた詩が掲載されている。間違いない。僕の書いたものだ。詩を読んだ瞬間に当時の記憶が鮮やかに蘇った。そうだ。僕は詩の賞をとって表彰されたことが確かにあった。なぜ今まで忘れていたのだろう。題名の斜め上に大きく「優秀賞」と書かれている。思わず目頭が熱くなった。

詩の内容は、太っちょのお月様がダイエットをして三日月になるが少ししてまた満月にリバウンドしてしまう、という内容だった。
自身が書いた詩に対する依怙贔屓込みの評価ではあるが、小学生の書いた詩としてはなかなか悪くないように思える。少なくとも今の自分には書けない詩だ。と、同時に何故今までこの詩のことを忘れてしまったのかも何となく理解できた。

おそらく、当時の僕にとって詩の受賞というものは自慢できるほどの出来事ではなかった。小学生の僕にとってのステータスとなるのは「どれだけのゲームを所持しているか」と「足の速さ」のみだった。「詩の受賞」なんてものは何の役にも立たないと思い込んでいた。
家に帰って両親に褒められたときに、少しだけ誇らしい気分になったのも覚えている。だが、所詮そこどまりだ。そもそもがこの受賞もまぐれ当たりに過ぎないのだ、と幼い僕は幼いくせに決めつけてしまっていた。自分の可能性を否定するような年齢ではないくせに。

小学生の僕にとって価値のなかった「詩の受賞」という出来事は、就活に苦しむ20代になったばかりの僕にとって少なからず心の栄養になった。
詩の内容を脳内で復唱しながら、詩集を本棚にしまった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?