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遺書か自問自答か。 からっぽにんげん

「あなたには素晴らしい価値がある」

出会った若者にそう言い続けてきた。ただ…

「自分自身に価値がある」

 そう思えたことはほとんどない。その言葉はただの偽善なんだろうか。

 横断歩道を渡っていて、停止線を守らない車が目の前を横切って通り過ぎたあとに「立ち止まらないで車にぶつかってれば、保険とかもろもろで生活楽になるんかな」と思った。けれども、結局そのときには動けなくて、変に色々と考えている自分を笑っちゃって。あほだなぁ…自分。なんて。
 まぁ最近そんな生活を送っている。メンタルが落ちたりちょっと持ち直したりで色々と文章がまとまらなかったけれど、これ以上書かないともう書けなくなるかもしれないと思った。遺書は残してなんぼだろう。
 今回は自分のからっぽさについて書いていこう。今まで自己有用感がなかなか持てず自分に自信や価値を感じられない若者に多く会ってきた。そんな若者に決まって自分は「そんなことないよ、いいとこいっぱいあるよ」「こういうこともできたじゃんか」なんてたくさん伝えてきた。だけど、自分自身にそんな価値を持てたことなんてほっとんどない。ちゃんちゃらおかしい話だとおもうけれど。

1.からっぽなじぶん

 自分は自分にかなり自信がない。同様に自己の価値を感じたことなんてほとんどないまま、大人になっていった。こんな自分に気づいたのはいつなんだろうか。
 たぶん、ずっとそうだったんだろう。物心ついたときから自分はコンプレックスの塊だった。体型も行動も他の人とは違って、それで笑われることが多かった。また、今振り返ると親にあまり褒められることもなかったように思う。周囲に笑われたりバカにされたりはわりとあった。そのときは柔道も習っていたが、住んでいる地域でいい成績を残しても父親からは「○○先生がこれ出来てないって言ってたぞ」でおしまい。

そんな毎日で見つけた自分の処世術は
いじられキャラでいることでそれ以上コンプレックスに踏み込ませない
いい人でいることで誰かに必要とされる
ことだった。強弱はあるがこれは今も変わらないように思う。
 コンプレックスを大げさな武器にして笑いをとるのは自分にとって武装に近い。そうすることで周囲がそれについて触れるインパクトを減らし自分へのダメージを減らすことが出来る。
 自分に価値はないのだから、「誰かの役に立つ自分」でいることで自分に価値を見出すしかなかった。

2.結局、隣の芝は青かった。

 さて、そんな全力で後ろ向きな人生を送ってきた自分が対人支援の仕事に就くなんてなかなかに良くないことなのかもしれなかった。でも会う若者それぞれに自分は本気で「なんでこんないいとこあるのに気づいてないんだろう」「こやつ、ここすごくないか?」と思ってそれを言葉で伝えていた。
それが出来ていたのはひとえに
         その子たちが羨ましかったから。だ。
 自分にはないものを持っている若者がただただ羨ましかった。だからそれに気づいていないことがもったいないと本気で思っていた。だからその持っているものがどんなに素晴らしいものか、どれだけ価値があるものか伝えたかった。自分に価値を感じられなかったからこそ、本気でそれを誰かに伝えられるなんて皮肉が効きすぎて笑えもしない。誰かをどれだけ認めても、空っぽな自分は満たされないままでいる。

3.若者支援に出会って「しまった」

 空っぽであればあるだけ周りに価値を感じて、なおさら自分に価値がないように感じ続けてしまう。そんな自分が嫌でしょうがない。こんな自分は変わるんだろうか。こんな自分が若者支援をやっていて、やりたいと思っていいんだろうか。そんなことをずっと考えているけれど答えは出ない。
 少し話が前後してしまうが、次回は自分が若者支援に出会い、その魅力に憑りつかれた。なぜこんなにも自分が若者支援の領域に興味や関心を持ったのか、この領域にずっと関わりたいと思っているのかを正直に書いていこうと思う。

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