ハロー、今日も愛しい世界の終わり
ああ、もうこんな時期か。いつもの通り道の雰囲気が違う。鬱屈とした人間がそそくさと通り過ぎる木々に何かが巻きついている。襟元が空気に触れて心もとない、そろそろマフラーが必要かな、なんて関係のないことも同時に頭を駆け巡る。往往にして人間なんてものはそんなものだとは思うけど。確率的に、自分が本来の光っている状態のその木々を見ることは低いだろう。基本的に帰りは深夜二時を過ぎるから。繰り返しただすぎる日々の中でこういうものは刺激になることもあるのだろうか。結構なことだと思う。今後も、職種を変える気は無いし、変えることもできないだろうから縁はないのだろうけど。最悪な世界ばかりだ。知っているけれど。すべからく世界は霞んでみえる、輝いてなんかないよ。
「世界五分前仮説なんてものがあるんだよ。」
そう彼は言った。大した話ではないだろう、いつもそうだ。ちょっと面白い話でね、と彼はいつも話し始める、別に面白くもない話の時もあるけど。つまり、というのも彼の口癖だ。体良く彼の話をまとめると、「世界五分前仮説」というのは哲学における懐疑主義的な思考実験の一つで、「世界が実は五分前に始まっていたとしてもその仮説は誰も否定することはできない」という話、らしい。遠い世界の話だなあ、と私はいつも思う、私には学がないから。なんとなく聞いたことあるだけの話を彼はまるで見てきたかのように話す。鮸膠も無く、詐欺っぽいね、という人もいるけど、私はとても魅力的なことだと思う。ぬくぬくと育ってきた他の人とは少し違う、少しヒリヒリした感じ。妬むとかはないけどでも少し羨ましいとは思う。望まれるような知的な話はできないよ、と私がいうと、彼は別に笑って聞いてくれるだけでいいよと言う、そう言って実際に実行してくれた。初めてだった、そういう人は。日が経っても彼は変わらなかった、嘘か本当かあまりわからない話を滔々と話して、私が笑って、それで終わり。普通の人は態度が大きくなったり、嫌なことをされたりすることが多いけど、彼はそういうことをしない。変だなあ、とは思うけど変だからこそ、私は彼を「人」ではなく、「彼」と呼ぶことにしている。
ほう、と息をつく。真冬が近づいていて気温の下がった外気に触れた息は白く染まっていた。「水」という言葉がよく使われる私たちの職業はあまりいい顔をされないけれど、彼は「仕事」の話をしなかった。難しい話題も多いけれど、知らない世界のお話は私の荒んだ心をほどよく満たしてくれる。面倒だなあと思う日でも彼の言っていた「世界五分前仮説」を思い出すと、まあ世界は生まれて五分だしな、と思うようになった、そんな日もある程度のことだけど。もし、そうだったらの空想は私の世界をきっと広げてくれる、と彼は教えてくれた。優しく微笑みながら、最近は私のもし、を聞いてくれる、それから、笑ってくれる。豊かな発想だね、なんて言って。ようやく、時間が来る、今日は彼が来る日だから、普段より少しだけ世界がクリアに見える。楽観的だから。りかさんは、と彼は私のことをさんづけで呼んだ。瑠璃色が宿る、と彼の声音を聞くたびに思う、そのことを話すと彼はロマンチックだね、と笑った。レモン色の人も、薄紫の人もいるよと言ったら彼はすごい、と驚いてそれからそれは特別なことだと褒めてくれた、怒られなかったのは初めてだった。ろくに顧みられて来なかったから、そんな話をすると怒られるのだとばかり思っていた。私の世界は霞んでいるなんて思っていたのはきっと色を見て見ぬふりをし続けてきたからなのだろう。
ーーーーー 2020.12.12 文芸部アドベントカレンダー2020
こんにちは。現文芸部部長の森野杏樹です。
最近やってなかったあいうえお作文です。うまくできてるといいな。