trip

Trip
森野杏樹

溶けそうだ。深夜12時。ドロドロになって帰宅。足はもう限界。いくら履き慣れていても7cmのヒールは体を蝕んでいく。そんなので十二時間以上も過ごしたら、足どころか腰までおかしい。もうこのままソファにたおれてしまいたいところだが、なけなしの理性が化粧を落とせ、風呂に入れ、コンタクトを取れと私に告げる。とにかくソファに着く前に、と洗面所に行って服を脱ぎ捨てる。シワになるかもしれない、と一瞬頭によぎるが、体は動いてくれない。
湯船につかった瞬間のこの体がほどけていくような瞬間が好きだ。じわじわと温度が、思考が体に戻ってくる。入浴剤入れればよかったかな、と考える余裕が生まれて、まだ生きていけそうだ。と安堵する。生きていけない時は多分入浴剤なんて贅沢品など頭に浮かぶことはないに違いない。入浴剤の代わりに、この前買った少し高めのフェイスパックを使うことにして自分への労りとしよう。本当はついでにアイスも食べたいけど、流石にそれは我慢することにした。あの素敵な紅茶味のアイスは週末に取っておくことにする。好きなものを食べる時、後悔してしまうような要素は一つもないほうがいいのだ。ゆるゆると満足するまで体を伸ばす。髪の毛を乾かして、深夜一時。
いつもより少し高めのフェイスパックはひたひたで気持ちがいい。脱ぎ捨てられた洋服をちらりと見る。今日はベージュのブラウス。明日は何を着て行こうか。黄緑のブラウスが目に止まる。あれにしよう。それなら今日のメイクから少し変えてもいいかもしれない。リップをコーラルピンクからオレンジへ変えてみようか。
別に自分の顔面偏差値の向上を望んでいるわけじゃない。服は、化粧は、武装だ。私が私丸ごと持って行かれないように、強い自分でいられるようにするための。「ふさわしい自分であれ」と私は私に暗示をかける。CHANELのリップも、Diorの香水も、武器で、暗示で、呪いだ。私は、それに相応しい人間になるためにきっとすがりついているだけ。武装するには自身のレベルもそれなりに必要で、だから私はスキンケアも、髪の毛のケアも、服の品質も保たなければならない。ふさわしい人間でいたいから。
「意識高いね、」
なんて言われる筋合いどこにもなくて、私はしたいからしているし、しなきゃいけないからしているのだ。じゃああなたはどうなの、何もしてないままで生きていけるだけの強さが欲しかった。それができるのは強い人だけだよ、とつぶやく。私はそういう人が嫌いだ、強いから。悪気がないのは分かっているけど。
少しずつ乾き始めたフェイスパックを剥がして、成分を押し込む。これも呪いみたいなものな気がする。明日は化粧ノリがいい。きっと。夜な夜な呪いを押し込んでいる。痛む足をゆっくりともみほぐす。s目を閉じて、足を伸ばす。明日も5時に起きなければ間に合わない。照明をおとす。呼吸がゆっくりになっていく。
朝5時。いつものように顔を作り上げていく。私は私から人間になる。服を何枚も重ねる感じ。自分がむき出しな部分が少しでもあるのが怖い。結局、今日は赤いリップにした。化粧はは自己防衛でもあって自己嫌悪でもあるのかもしれない。仕上げに、と香りを振りまき、靴を履く。7cm、視線が高くなる。少しだけ、世界が変わる。カツリ、踵がなった。

----化粧は武装だという話。2019.4

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