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寝る前のメモ。


晴耕雨読的な暮らしの良さは、自分の時間軸を自然側にあわせていくことで生まれる心の余白にあると思うのだけれど、そこまでのゆとりがもてるのは、もう少し俗世と離れてからになると思う。

もともと不便さには耐性があるけれど、わたしにはまだ手放せないものがそれなりにある。(手放す必要があるかどうかはさておき。)それに、どちらかといえば大雑把なほうなので、絵に描いたような丁寧さのもとでは暮らせないし、身のまわりにあるもので「実験」をしている感覚のほうがつよい。そういう意味でも、自分自身がいちばんの実験台なんだと思う。

という、どうでもいい前置きはさておき。

先日から、満を持して『エコロジカル・デモクラシー まちづくりと生態的多様性をつなぐデザイン』という本を読み進めている。これは、これまで考えてきたことをきちんと言語化していくための本だと思っている。(新しい分野の本を読み進めていると、不思議なことに近しい分野の相談がやってくるのでおもしろい。)

標準化は私たちを逸脱の恐れから自由にしながら、非場所性をもたらしている。つまり地域のアイデンティティが失われる。
(中略)
たとえば冷暖房機器によって環境が制御されている世界の人々は、自然の力で冷暖房を得ている人々に比して、天候と無縁な日常を過ごす。社会が専門化されるにしたがい、私たちは場所についての全般的な知識の習得や、社会的かつ生態的にきわめて複雑な現象を考える必要から解放された。そして、今度は、この自由によって日々の問題を解決できなくなってしまった。
(同書 p20 「可能にする形態」の一節より)

なにをもって「自由」とし、なにをもって「不自由」と捉えるのかは、基本的に考え方のちがいで人それぞれなのだけど、ここで意味するところの “標準化” を好まない方のほうが周りには多い気がしている。移住を選択している方も、そういう方が多いのかな。だからといって、個性的な(クセのある・尖っている)人ばかりかと聞かれたら、全然そんなことはないんだけどね。ニュアンスがうまく伝わっていなかったらごめんなさい。

こういうカテゴライズの仕方をすると、だいぶバイアスがかかっているのかもしれないけれど、わたしのまわりはおおよそ「①社会の軸にあわせられる人」「②自分の軸で生きたい人」「③自然の軸にあわせたい人」で構成されている。割合的には②と③の属性の方が多くて、同世代で「ひさしぶり!ちょっと聞きたいことがあるんやけど・・」と急に連絡をくれる方は①と②のあいだが多い印象かな。

だからなにでどうだ、という話がしたい訳ではないのだけれど、コーディネートを「業」としてやっていくのであれば、このあたりのカテゴリーが脳内でさらに細分化されていて、最適なかたちで心のあるAIのようにつないでいく必要があると思っている。それをひとつひとつ書いていくことは野暮なのでしないし、個人的な作業として考えている。

本題からだいぶ話は逸れてしまいましたが、移動や行動や消費の「自由」が進むにつれて場所(土地)に属する必要がなくなり、「地域のアイデンティティ」を失うことで、日々の問題を解決できなくなったという見立てについては、それなりに近しい見解をもっている気がするので、身近なところの課題を解決しながら、「不自由」の捉え方を変えていくプロダクトを提供したいです。先のことはわからないけれど、とにかく楽しみ。

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