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寝る前のメモ。


本当に夏が来たのかと思うくらい暑い日だった。今年はなんだか、季節が急いでいるんじゃないかと思う。桜も早かったし、梅雨入りも早そうで。このままいけば夏も秋も早く来るのか、いや、夏がただ長くなるだけなのか(それはちょっと嫌だな〜)。どういう影響があってこうなっているのかはわからないけれど、肌感覚としてはそんなところです。

でも、正確には1年前の梅雨入りがいつだったかなんて覚えていないし、そのくらい曖昧なものでもあるんだけどね。

気候と味覚の関係について、何か具体的に調べものをしたことはないのだけれど、前に友人が「このまま温暖化が進んでいくとすれば、いまの間にベトナム料理屋かタイ料理屋を開いておくといいかもね」と言った。わたしにはそんな着眼点やビジネス手腕もないのだけど、暑い国で食べられているものは、暑さに耐えるために発展してきた文化でもあると思うので、そういう意味では一理ある。

それがきっと大衆に向けたビジネスというもので、おそらく儲かる。そしてわたしは、ベトナム料理もタイ料理も求めている。現に、1年ほど前にタイカレーが食べられるようになった。ただ、自分自身はどうしても「たとえ温暖化が進んでも食べたい日本料理とは?」という方向に向かってしまう。冷たくておいしい和食が増えたら、それはまたアウトバンドしていくカルチャーにもなるじゃない。そんなふうに、ついつい課題が多く感じられる方に進んでしまいたくなる。

あとは、感情と風土についても興味がある。

母と話しているなかで、少々感情的になるシーンがあり、なぜそれを外では出せなくなってしまうのか?というトピックスに切り替わった。昔から友だちに対して自分の気持ちをうまく伝えられなかったこと、周りの目を気にしてばかりいたこと、バスケットボールを通して怒りや驚き、迷いを表に出さいスキルを体得してしまったこと・・・いろいろと考えられる要因はある。

そのなかでも、バスケットボールの存在は大きい。相手に心を読まれないように、喜びを除いてはポーカーフェイスを保つようにしていたし、ある意味フェイクが得意だったので(人を欺く・・・いや、意表を突くということで。苦笑)、そうなると、自分の感情は内側で処理することが当たり前になる。「怒り」や「焦り」に関しては、感じていても誰にも伝わらなくなってしまった悲しさすら覚える。

正確には、怒りに関してはエネルギーを使うから、省エネでいられるように怒らなくていい距離を保っているだけなのかもしれない。

母と感情について話すなかで、昔、韓国人の友だちに「アンナはなんで怒らないんだ!」と言われて驚いたことがあった。彼からすれば怒るべきことが起こったのだけど、わたしにとっては怒っても仕方がないことだったので、わたしの代わりに怒ってくれている彼に驚いた。

確かに、韓国人の友だちは泣きながら机を叩いたり、大きな声で感情的に話したり、感情表現がとにかく豊かで鮮やかだった気がする。中国人の友だちもまっすぐ話すし、自分がいいと思うことはチャキチャキやる。そこに自分以外の「誰か」は存在しない。

ルームメイトだった友人は、わたしが髪の毛用のブラシを持っていたら、何も聞かずに使う(笑)。「使ってもいいけど髪の毛がたまるのは嫌だ」と伝えると、わかったと言って使っていた。そのくらい会話がさっぱりしていて、わたしは国外に出た方が呼吸ができていた。日本にいるとダメだということではないんだけど、国外だと自分で主張しないと誰も読みとってなんかくれないんだよね。そこには潔さがあったし、むしろ心地よかったのだと思う。


最近はこの、「潔さ」の成分が足りていないのかもしれない。

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