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寝る前のメモ。


昨日言ったことと、今日言ったことが必ずしも同じでなくていい。発言や発信において、なるべく一貫性は保とうとしてはいるけれど、真ん中にある部分が変わらなければいいんじゃないだろうか。

大切にしたいことがあるから、こうして日々揺らぐわけだし、それだけ考えている証拠なのだと今は言い聞かせてみる。すべてを大切にできるほど器の大きな人間ではないので、まずはできるところから。

どこで見かけたか忘れてしまったけれど「学ぶことが一番のアンチエイジングになる」というコメントに、思わず頷いてしまった。もちろん、身体的な衰えには逆らえないので、少しばかりの運動やストレッチは心がけているけれど、思考を固定化しないためには、やはり「学び」が不可欠で。

探しているアイデアを考えるためのインプットとしては、本や記事を読み、子どもと遊び、まちを歩き、できるだけいろいろな人と話すのがいい。そして、時々本物に触れる。どんな条件を以って「本物」を定義すればいいのかわからないけれど、たまたま京都府民として生まれ育ったわけなので、身近なところから見つけていくのがいいかもしれないね。

『コンヴィヴィアル・テクノロジー』も半分ほど読み進めていて、現在は「人間と人間」の章にさしかかった。ひとつ前の「人間と自然」の章では、ちょうど1年ほど前にラジオを始めて、まちの人たちにインタビューをしながら感じていたことを紐解いていけそうな兆しが見えた。

“ここまで考えてみると、現在様々なところで語られる「脱人間中心」という言葉には二つの意味が含まれているのではないかということに気づく。一つは、気候変動危機に代表される「人新世」における人間と自然の関係において、行き過ぎた人間中心を見直すべきときに来ているという視点である。
(中略)
もう一つは、人間はそもそも世界の中心ではないこと、言ってみれば「脱神中心」と表裏一体の「脱人間中心」である。
(中略)
そして裏を返せばそれは、科学技術が「人間は世界の中心でもなければ、他の生き物と違う神に選ばれた特別な存在でもない」ことも知らしめてきたとも言えるのである。”
緒方壽人著『コンヴィヴィアル・テクノロジー 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ』より

加えて、『WIRED VOL.41 NEW NEIGHBORHOOD 都市と未来のネイバーフッド』でも興味深いページを読み進めていて。

ヴォイドという祝祭空間について、“大きな空箱(スタジアム)”をメタファーに綴られている箇所があった。横文字がつづく雑誌なのですんなり読めるものではないけれど(苦笑)、実際のスタジアムがあるまちとしてどんなことが可能なのか、その辺りは参考になりそうな内容だった。

“スタジアムを単なるスタジアムとして捉えるのではなく、オンライン/オフラインの世界を巻き込んだ“祭り”を引き起こす装置として考える。地方は衰退し、スタジアムの収益性が強く重要視されるようになるなかで、画一的な従来の評価とはまったく異なる価値軸を醸成しながらスタジアムを考えていく必要がある。
(中略)
単純にスタジアムとして使うだけでなく、ヴォイドとしてどう活用していけるのか。スタジアムの本質的な価値は、普段は入れないことにある。そのスタジアムの空白性に目を向け、何かがないことから生まれる豊かさを掘り下げることで、石田はモノが溢れ返った社会におけるスタジアムの新しい可能性を掲示しようとしている。”

先日の「インバウンドサミット2021」のカテゴリーセッションで語れていた、ガイディングにおける強弱(テンポの緩急、余白)とも似ているかもしれない。まだ自分の言葉として咀嚼はできていないけれど、ハレとケの精神にもつながっていくイメージ。

その辺りについて、「なんとなく」ではない形で話せるようになったら、きっと次のステージが待っている(はず)。三千院に行きたい。

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