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寝る前のメモ。


マムシに気をつけながらですが、この季節はこのくらいの時間帯がいい。今日もきょうとていい盆地でした。

現在読み進めている「コンヴィヴィアル・テクノロジー - 人間とテクノロジーが共に生きる社会へ - 」のなかで、人間の移動能力を拡張しつつ、それに支配されることのないバランスを持った道具の例として「自転車」が挙げられている。

(中略)
使用というのは、中動態的であって、僕が使用が起こる場所になることを意味します。自転車に乗るとき、僕は「自転車の使用」の場所になる。まさしく主語が動詞の名指す過程が起こる場所になるというのが中動態の定義であったように。(「自転車に乗る体になる」)

 確かにここで指摘されているように、「使う」(能動)か「使われる」(受動)かのどちらかではなく、そのどちらとも言えない中動態的な関わりこそが、人間と道具との「ちょうどいい」関わり方と言うこともできそうである。

人間の移動・行動を可能にしながらも、人間が使わなければ自転車だけで前に進むことはない。当たり前だけど、どんな道具(および、道具を介した情報、あるいは、道具を使用する他者)であっても、いい距離感で付き合わなければいけないのだと思う。こうしてPCがあることで、いつの間にか私も道具に隷属してしまっているのかもしれないけどね。

だから、iPhoneを忘れた日にはむしろ清々しい気持ちになるのか。だとすると、相当えらいことになっている。


では、「人間らしさ」と「テクノロジー」のバランスを取り戻すために、私たちには何ができるのだろうか。

(中略)
「科学の非神話化」とは、端的に言えばテクノロジーをブラックボックスにしないことであり、「言葉の再発見」とは、言葉が世界に与える影響に注意を向けることであり、「法的手続きの回復」とは、本来行き過ぎた状態に対抗するための道具である政治や法に主体的に関わることである。

ということで、正しい知識を得て、正しく使うことができるなら、テクノロジーの進化は歓迎されるべきものだったのかもしれない。けれど、結果的にテクノロジーの力で差が明らかに開いてしまった、あるいは離れてしまった分野もあり、そのひとつが「政治」なんだと思う。


自分のやりたいことを肯定するわけではないけれど、だからこそ「e-governance」を学ぶべしだと思っていて、その糸口を見つける半年にしたい。そう、あっという間に6月も後半なんですよ。

もうひとつ、何か書こうとしていたはずのことがあったけれど忘れた。ひさびさに部屋に生のお花を入れてみましたが、やっぱりいい。

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anna namikawa
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