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卒論から18年後の8月 Footballがライフワーク Vol.44

近年のフットボールを眺めながら、学生時代の自らの仮説を思い返す瞬間がある。2016年のクラブワールドカップにて、公式戦で初めてVARを採用した頃を機に導入が本格化した機械判定を、私はずいぶん前から待ち望んでいた。判定を人間=レフェリーに一任するには、横幅68×縦幅105メートルを規格とするピッチはあまりにも広大で、数々の疑惑が有耶無耶のままになる。そんな「負の遺産」が、滅亡とはいかなくとも激減したことで、機械判定がフットボールに寄与する時代が到来したことを安堵していた。

大学へ進んでも勉強らしい勉強をしなかった私は、卒論のテーマまで「フットボールと機械判定」だった。ときは2006年、前年に開催されたU-17の世界選手権はワールドカップと呼ばれる前のことで、ゴールラインを超えればレフェリーの腕時計へ伝達される機能を搭載したボールが試験的に使用された。まだフットボールへの機械の介入に懐疑的な意見も根強かった当時、私は「強く賛成」の立場を貫いた。

パリ五輪の準々決勝、17歳にしてバルサでもレギュラー格、パウ・クバルシを背後に藤田譲瑠チマのラストパスを引き出した細谷真大は、見事に反転した。放たれたシュートは、確かにスペインのゴールを破ったかに見えたが、機械判定によって殊勲の同点ゴールにはなり得なかった。プレーしてはいけない地点でボールに関与することで不当に利益を得る―その防止がオフサイドという反則の理念であるはずが、機械が判定するのは、たとえミリ単位でも身体の一部がオフサイドポジションにあったという物理的な事実らしい。それは、格下が格上に追いつくというゲームの興味を削ぎ、あるいは逆転に持ち込めたかもしれないチームの希望を摘む危うさを孕んでいることを、痛切に思い知った。

すでに数的不利にあったチームが、1点ビハインドの状況でさらなる数的不利を負えば、そのあとのゲーム展開はどうなるか。しかも、それが不可解な判定によるものだとしたら。フットボールのことをまるで知らない人でも、「面白くなるはずがない」と容易に想像できることが、今週の半ば、わが神戸のゲームで現実に起きた。最終スコアは0-3とはいえ、10年以上の習慣となった独自採点で、前川黛也には6.5を与え、退場処分を受けた飯野七聖とマテウス・トゥーレルを含め、及第点未満の選手は一人もいない。このゲームに関して、わがクラブは惨敗したわけではなく、"被害者"だと受け止めたためだ。いかに機械が導入されても、最終的な判定を司る以上、ときに人間=レフェリーが"加害者"になる危険性は存続するようだ。

私が学生時代から機械判定の導入を支持してきた根拠には、大きく二つあった。一つは、疑惑の判定により不毛な議論が起こるたび、フットボールへの印象が悪化するリスクが低減すること。もう一つが、疑わしい状況に直面しても確認と訂正の余地が与えられるおかげで、レフェリーの尊厳は保たれ、選手や観衆の不満は解消し、フットボールに関わる人びとの幸福感が向上することだ。しかしながら、8月に入り相次いで起こった出来事を目の当たりにすると、18年前の"論文風の書面"で立てた仮説が正しかったのか、いまだ確信が持てない。

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