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仕事の"えらさ" 運動神経が悪いということ Vol.16

「勤めは、えらいなぁ」私が就職して以来、祖母はときどき仕事の話題をもちかけては、決まってそのように締めくくった。えらいとは、「偉い」と同音のうえ複数の用法がある関西弁で、「とても」の意味もあるが、この場合は「大変」とか「しんどい」の意味になる。先月末、その祖母が天に召された。96歳と半年、大正の終わりから令和まで生ききった大往生だが、10日あまり経過したいまも喪失感は拭いきれない。

祖母との永遠のお別れからほどなく、30代も最後の1年に突入した。社会人になってから丸15年の間、はたして年齢以外に積み上げたものがあったろうか。仕事、一日の大半を費やす時間は日々の憂鬱の種で、心の平安を脅かされる原因とも言い換えられる。数年ぶりに手渡された辞令は、降格の通知。給料が減るのに、同僚の数も減り、仕事は増えることになった。

いつしか、朝は5時半前後には自ずと目が覚め、6時代に家を出るのが習慣になった。出勤してから始業まで、1時間以上の間隔が空く日もある。決して、好んで早起きしているわけではない。蓄積された疲労と加齢があいまって、眠るのもままならない身体は、古びたパソコンのように起動に時間がかかり、なかなか仕事へ取り掛かれなくなっている。そこに数年来のコロナ禍が重なり、通勤ラッシュを避けた早めの通勤がますます定着してしまった。

祖母の容態が急変したのは、早朝だった。肌身離さずスマホを握る習慣が無いことも仇となり、年度末の予定や引き継ぎの段取りを思案しているうち、あろうことか、職場に着くまで危篤を伝える母からの留守電メッセージに気付かなかった。着信時刻は6時35分、ちょうど電車に乗り込んだ頃だった。

タクシーを2回乗り継いでも1時間以上かかる病室へ入ったときには、すでに息絶えていた。かすかに温もりをとどめた肌に触れ、申し訳なさと不甲斐なさに苛まれながら、涙が溢れた。その日のうちに通夜を終え、翌日は葬儀。思い出や記憶を偲ぶ時間にも、果たせなかった引き継ぎや翌週に延ばした仕事のことが頭をよぎる。親族との死別にさえ、心置きなく向き合えないとは―。おばあさん、ごめんなさい。仕事は、勤めは、ほんまにえらいわ。

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