【ファッションで時代を切り開いた人物たち ⑥】三宅一生
LIFE DESIGN 飯田亜美です。
私はブランドを立ち上げたデザイナーの背景や歴史を
知るのがすごく好きです。
世界に影響を与えているブランドやデザイナーの歴史を知ることで、
ファッション業界の考察とこれからの展開に活かすために
綴っております。
そんな今日ご紹介する人物は
ISSEY MIYAKEのデザイナーの三宅一生氏です。
私の心が動く日本のブランドのひとつです。
言わずもがな、ISSEY MIYAKE、プリーツプリーズ、BAOBAOなど様々な作品を生み出しています。
スティーブ・ジョブズに愛されたファッションブランド、ISSEY MIYAKE
三宅一生氏がISSEY MIYAKEをスタートするまで
三宅一生氏は1938年広島市生まれ。
第二次世界大戦中だった当時、7歳のときに原子爆弾投下により被爆。
小さい頃から美的センスがあった三宅一生はずっと美術部に所属しており、大学は上京し多摩美術大学で学びます。
在学中から装苑賞を2年連続で受賞し、その頭角を現しました。
衣服をファッションとしてではなくデザインとしてとらえていた三宅一生氏ですが、
当時日本ではまだファッションをデザインとして見る向きはなかったため、大学卒業後単身フランスに渡り、パリの洋裁学校でファッションの基礎を学びます。
その後はギ・ラロッシュのアシスタントを経て、ジバンシィでデシナトゥールという完成した服を絵にする職に就きます。当初は華やかでエレガントな技巧に着目していましたが、パリ5月革命に遭遇したことを転機とし、一般の人向けの機能性ある衣服を重視するようになっていきます。
1969年にはニューヨークに渡り、ジェフリー・ビーンのもとで衣服の機能性などについて重点的に吸収していきました。 1970年、大阪万博を控えた日本に帰国した三宅一生は「三宅デザイン事務所」を設立。
1971年春夏シーズン、「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」としてニューヨークにてコレクションを発表。73年からは、パリにてプレタポルテ・コレクションを発表。
これがISSEY MIYAKEの始まりです。
ISSEY MIYAKE設立以降の歴史
73年からは、パリにてプレタポルテ・コレクションを発表。70年代、日本はもちろん、世界の伝統的な技術を受け継ぐ職人のもとを訪れ、失われつつある糸、染め、織りなどの技術を研究、モダンなデザインとして蘇らせる協働制作プロセスを確立。
80年代、身体のフォルムと動きの研究を続ける中で、プラスチック、籘、紙など、布以外の素材を用いた服づくりに挑戦。83年には「ボディワークス展」を開催した。これについて三宅は、CBSのインタビューで「人々がこれまでとは異なる視点で"ボディ"について考えはじめた時期でした」と語っている。
88年よりプリーツへの取り組みをスタート。93年、「プリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ(PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE)」をスタート。このブランドでは裁断・縫製後にプリーツをかける「製品プリーツ」手法を用い、機能・汎用性・美しさをかね揃えた服を展開。これまで約400万枚が世界中で愛用されている。
98年、藤原大(Dai Fujiwara)と共にデジタル・テクノロジーを用いて「A-POC =A Piece Of Cloth(エイポック)」の開発をスタート。一本の糸、一枚の布が服になるまでの革新的なプロセスを確立した。「一枚の布」から衣服を好きな形に切り出すことができ、“着る人自身がデザインの最終段階に加わって楽しめる”というのも「A-POC」の大きな特徴。
2000年春夏シーズンのコレクションより「イッセイ ミヤケ」ブランドをデザイナー滝沢直己(Naoki Takizawa,ナオキ タキザワ)が引継ぐ。
2004年、財団法人三宅一生デザイン文化財団を設立。アーカイブ作りやデザイン文化交流、若手の作家・アーティストなどを中心とした人材育成に尽力している。
2007年春夏を最後に滝沢直己がイッセイ ミヤケでのデザイナーを退任。2007年秋冬コレクションより藤原大がイッセイ ミヤケのクリエイテブディレクターに就任し「A-POC INSIDE」を掲げて引継ぐ。
2011年、ウィメンズの新デザイナーに宮前義之が就任。2012春夏コレクションから新体制で臨む。また、メンズに関しては、ブランド名を「イッセイ ミヤケ メン(ISSEY MIYAKE MEN)」に改名。
三宅一生と研究開発チームのReality Lab.(リアリティ・ラボ)による服作りのプロジェクト「132 5. ISSEY MIYAKE」が2012年にイギリス・ロンドンで行われた「デザイン・オブ・ザ・イヤー2012」の審査会にて「デザイン・オブ・ザ・イヤー2012」のファッション部門最優秀デザイン賞を受賞。
2013年、イッセイ ミヤケ メンの新デザイナーに高橋悠介が就任。同年、「オム プリッセ イッセイ ミヤケ(HOMME PLISSÉ ISSEY MIYAKE)」デビュー。
2016年、国立新美術館で三宅一生の展覧会「MIYAKE ISSEY展: 三宅一生の仕事」が開催。三宅が活動を開始した1970年から現在に至る約45年間の仕事を紹介する、これまでにない規模の展覧会となった。
2020年春夏シーズンより、ウィメンズのデザイナー・宮前義之が退任。新デザイナーとして近藤悟史が就任した。宮前は、イッセイ ミヤケ社に留まり研究開発を進めながら新しいプロジェクトを推進していく。
2020年春夏シーズンをもって、イッセイ ミヤケ メンのデザイナー・高橋悠介が退任。デザインチームが後を引き継ぐ。
2020-21年秋冬シーズンをもってイッセイ ミヤケ メンがブランド休止。店舗の今後については社内で調整中。
2020年10月、横尾忠則と「A-POC」とのコミュニケーションから生まれる新しい衣服のプロジェクトとして「TADANORI YOKOO ISSEY MIYAKE」をスタート。
2021年2月、新メンズブランド「アイム メン(IM MEN)」発表。生活環境の変化を柔軟に捉え、現代的な生活シーンに溶け込むプロダクトとしての実用性とシンプルな機能美を追求した、男性のための新しい日常着を提案。132 5. イッセイ ミヤケで培ってきた再生素材や折りたたみの数理による衣服構造の研究を発展させたデザインを展開する。
2021年3月、イッセイ ミヤケの独自プロセスである「A-POC」の概念をさらにダイナミックに発展させる「エイポック エイブル イッセイ ミヤケ(A-POC ABLE ISSEY MIYAKE)」をスタート。デザインは、宮前義之率いる、エキスパートを集めたデザイナチームが手掛ける。“一枚の布”の上に、アートやテクノロジー、クラフトなど、ジャンルの垣根を越えた多彩なアイディアを繰り出し、“次世代の衣服”として様々な可能性を見出す。同ブランド発足により、「TADANORI YOKOO ISSEY MIYAKE」も「エイポック エイブル イッセイ ミヤケ」から発表されることとなる。
2022年8月、逝去。
https://www.fashion-press.net/brands/6より出典。
「破壊されてしまうものではなく、創造的で美しさや喜びをもたらすもの」
これが彼のテーマです。広島での原爆の体験から来る彼の仕事観は世に多大なる影響を与えました。
一枚の布
まとめ
あえてあまり自分の解釈を入れずに彼の歴史を載せましたが、歴史を見るだけで世に多大なる影響を与えていることがよくわかります。
ISSEY MIYAKEは私が働いてみたかった憧れのブランドの一つでした。
(実は新卒の就活の際2次面接で落ちてました)
昨年三宅一生氏は惜しくも亡くなりましたが、彼の仕事観やブランドへの想いは受け継がれ、これからもずっと日本を代表するブランドであり続けるのだと思います。
創り出したプロダクトから、想いや歴史が伝わってくる。人が感動し、動かされていく。
私もこういう仕事がしたいっていうのが、学生時代からの憧れです。
やっぱりドメスティックな歴史に残るブランドを創りたい。
これが私のファッションのテーマであることは変わらないなって思いました。
今日も読んでいただきありがとうございました。
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