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【東西】話のオチ問題を考える

ここは大阪。
わたしは夫と、夫の実家近所の立ち呑み屋に来ていた。

大きめの黒Tシャツの上から見てもわかるガタイのいいお兄さんが、ふとした話の流れでこんな発言をした。

「マッチョの話はオチがないねん」

わたしのnoteをちょこちょこ読んでくださっている方ならご存知かもしれないが、わたしは無類の筋肉好きである。新幹線を乗り継いでボディビルの大会を見に行くぐらいには。

したがって黒T兄さんの「マッチョの話にはオチがない」発言を聞き流すことなどできなかった。

話にオチがないのはマッチョに限った話なのか?
ここは大阪とはいえ、そもそも話にはオチがなければいけないのか?


いや、まずオチってなによ。
ググってみると「オチとは笑い話などの話の結末で、多くの場合おかしみのある部分。落語に由来する」とある。
…おかしみねえ…。

で、関西人が求めるオチについても軽く調べてみた。
オチは話の区切りのようなもので、必ずしもおかしみがなくてもよい
という声もみられた。

つまり「からの?」「で?」とツッコまれないような話ならOKと捉えられた。
「昨日ジム行ったんだよねー」で終わるのではなく
「昨日ジム行ったんだよねー。で、今日めっちゃ筋肉痛だわ」程度の、とくにおもしろくないひと言でもよしとする、というもの。


だがしかし。
「話をするならオチが必要であり、もしオチがおもしろくなければその話は『オチていない』ということになる」という厳しい意見もあった。
これは大阪ネイティブの、我が夫とその兄2人のコメントである。

オチのない話をするときは
「まあ、オチはないねんけどな」で落とすらしい。

こうなるとなかなかシビアな世界である。
ただ、ここまでみてきたようにオチに対して大阪人のなかでも認識が分かれているため、オチに求められるクオリティは「人による」のかもしれない。


調査の母数はかなり少ないけれども、大阪の人は話にオチを求める傾向にありそうなことはわかった。

だがしかし、まだ問題がひとつ残っている。
マッチョはオチがない話をしがちなのか。
オチない話をしがちなのはマッチョに限られるのか…!?

たとえばあのなかやまきんに君さんは、筋肉留学と称してアメリカに留学に行ったが、からだがひと回り~ふた回り小さくなって帰ってきたというオチがある。
勉強が大変で、筋トレがなかなかできなかったそうだ。


わたしは思う。
マッチョとの会話を楽しむのなら「相談」や「情報交換」に振り切ったほうが建設的なのでは?と。

マッチョはからだづくりのスペシャリストである。
食事のカロリーを計算し、食材・食品を入念に選び、効果的なサプリ・おいしいプロテインもいろいろ試し、筋肉を大きくするために筋トレのメニューも試行錯誤し、からだをしっかり休ませるために睡眠にもこだわっている。

「健康オタク」といってもおかしくないだろう。


ダイエットや運動不足で困っていることがあったらマッチョに相談してみるといい。きっと適切な答えを返してくれるはず。
オチよりも、あなたの健康を増進するアドバイスを求めたほうが自分のためになるじゃないか…。


というか、小さな島国・日本でも東と西ではまったく文化が違うのだから。お互い歩み寄ろうぜ…。
オチのある話がうまい関東人もいれば、話下手の関西人もいるはずで…。
こんなことを言ったら元も子もないけれども、結局「人」なのよ…。


ヒョロガリのわたしが言うのもあれだけど、黒Tのお兄さんにはもうすこしマッチョにお手柔らかに接していただけると幸いである。



今日も読んでくれてありがとうございます。
オチのある話もできるようになりたいけれども、その前に「腑に落ちる」話をできるようになりたいものです。

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