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ゴッホとゴーギャンから教養を考えた話

ゴッホとゴーギャンは私にとってピリッとした感情をもたらす画家である。

なぜなら高校の国語の授業で、「ほら、ゴッホと南仏で共同生活をしたあの画家ですよ。。タヒチの絵といえば誰だか分かるでしょう?」と言う先生の問いにクラスの誰も答えられなかったから。

授業中なぜその話題になったのかは覚えていない。でも、「それくらい教養として知っておくように」という先生の言葉が重く響いたことは覚えている。

それは、40名ほどの生徒たちが約15年の人生で読んだ本や見た映画、触れたストーリーからたまたま抜け漏れた情報を肌で感じた出来事だった。

私にとってゴッホは自画像とひまわりの人、ゴーギャンは輪郭が太い絵の人。インターネットもない田舎の女子高生の記憶はその程度だ。背景の物語まで手が回らない。そして教養はそんな物語に隠れているらしい。

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上京すると、「小学生の頃はニューヨークにいて、メトロポリタン美術館によく行っていました」とか「親が持っていたヒエロニムス・ボスの画集が・・」という人々と頻繁に出会う。清々しいほどのアート経験値の差に驚かされる。

でも、彼らに追いつけなくても大丈夫。私は先生が気づかせてくれた教養の端っこを掴んでいる。あとは自分のペースで本をめくり、ゆっくり実物を見て感じるだけ。そう思えた。学校教育はありがたい。

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どんな情報もインプットだけでなく、アウトプットして楽しんだり、誰かの気持ちを少しだけ豊かにしたときに「教養」になるのかもしれない。

だからこそ、「この作品は面白そう」と感じてもらえる文章がひとつでも書けたらいいな。

と、考えながら観たアムステルダムのゴッホ美術館について近日書こうと思います。

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