見出し画像

掌編小説 はにはに


公園の小山で駆けて、転げ落ちてしまった。
頭から落ちたのに痛くないのか、幸(さち)はへたへた笑っている。
小山の後ろのもう少し大きい小山から、弟の明日希(あすき)がその様子を眺めている。

空は青い。青いくせに青すぎて、まぶしいくらいだ。

明日希が家に帰ろうとすると、幸が気づいてついていく。
まるで、幸の方が妹みたいだ。

明日希はそんな幸にイライラする。でも、いやじゃない。
そのイライラが、自分が今ここにいることを理解させてくれるし、幸が自分の側にいることを気づかせてくれる。
幸が側にいると、明日希は自分を見失わないでいられる。
それは、ふと気づくといつも思うことだ。

いつだったか、わがままで臆病で面倒くさがりな自分を、幸は好きだと言ってくれた。
それは、明日希にはわからないことだった。
なぜ、こんなにも自分勝手な明日希を好きだと思うのか。
好きだと言ってくれるのか……?

そういえば、明日希も幸が好きだと思う時がある。
家で、のろのろとたとた歩いている姿はいかにも邪魔で。
でも、ぽてっとソファに座っていつの間にか寝ている姿は妙に好きだと思ってしまって。
最近ではそれが安心なのだとわかってきてしまったので、たどたどしくも認めざるを得ない気持ちに、腹立たしさも混じってくる。



幸が無理やり明日希の手を取って、ぶらぶら振らせた。
恥ずかしい。小学三年生にもなって、一つ上の姉と手をつなぐなんて。
だけど、なぜか落ち着く。
振り払おうともせず、明日希はされるがままになっている。
そんな明日希の顔を、幸は横目でちらっと見て、青い空に顔を向けた。

        好きだなぁ。

こぼれんばかりの笑顔を、青空にぶつける。


明日希は口数が少ない。と幸は思っている。
それは、悪いこととしてではなく、幸が欲しかったものだからこそ思っている。
幸はちょっとしたことでも、たくさんの言葉を使って、あれこれ迷いながら喋るので、とても時間がかかり、わかりにくくて相手に迷惑をかけている。
そういうところが可愛いと言ってくれる人もいるけれど、幸はいやだと思っている。
すべてのことについてそう思っているわけではないけれど、それでもやはり、大切なことだけを言い表してまとめられる明日希のことをすごいと思っているし、そうなりたいという憧れも大きい。
明日希は表情に限度がある。
いつもむっつりさんなのだ。
でも、不意に見せる優しい笑顔や、驚いた時のびっくり顔は、幸をとても楽しませる。
そんな時思うのだ。

”好きだなぁ”って。


夕日に空が染まる頃。
この時間が二人は好きだった。
背中に伸びる真っ黒な影はちょっぴり大きくなった気分で、幸なんかは嬉しくて「うひゃひゃっ」と笑ってしまったりする。
昼間とは違う夕暮れのお日様の顔は優しくて、優しすぎて。
涙が出るほど目に染みた。

家までそんなに遠くないのに二人はゆっくり歩いていたので、ずいぶんと時間がかかってしまった。
手を洗って、部屋のソファにぽてっと突っ伏して倒れた幸を確認して、明日希は違う部屋へ行ってしまった。
だけど、その後すぐに戻ってきた明日希は、手に救急箱を持っていた。
明日希も手を洗う。
幸をソファから引きずり降ろして両膝と右腕を出してやる。
幸は擦り傷を負っていた。
自分でも気づかなかった幸は驚いた。小山から転げ落ちた時に擦ったのだろう。明日希は、それに気づいていたのだ。
黙々と消毒液をかけて絆創膏を貼っていく明日希の顔を見て幸は、青空に向けた笑顔を明日希にあてた。
幸の様子に気が付き、明日希の顔がはにかんだ。

そう、この顔だ。
そうだ、この安心だ。


         あぁ、  好きだなぁ……。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?