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ケニアに生かされた父のこと

アフリカのケニアに30年間単身で住んでいた父は、3年前に日本で他界した。ガンで亡くなる前に「ケニアに人生を救われた」とホスピスのベッドで何度も呟いていた。
大好きな父の死を思い出すだけでまだ辛さが込み上げてくるが、父とケニアのことをどうしても残しておきたい思いがずっとあった。

ヤギの乳と日の丸弁当で育った少年時代

父は1947年産まれ、戦後のベビーブーム世代の一人として産まれた。7人兄妹の末っ子。産みの母の母乳が出なかったから飼っていたヤギの乳を飲んで育ったらしい。

経済的事情で産みの家族は父を育てることが出来なくなり、父2歳のとき、伯母家族に引き取られた。

伯母の家も子供はいないものの常に火の車だった。
当時「子供=働き手」だったから、9歳から伯母の家業である牛乳や餅の配達を手伝い、早朝・放課後は自転車で配達に駆け回っていた。学生のときの弁当はもっぱら日の丸弁当(梅干しオンザライス)か白い餅で、毎日、白かった。いつもお腹が空いていて、配達の空き時間を狙っては友達と港へ釣りに行った。火をおこし、釣れた魚をその場で焼いて食べるのが最高のご馳走だったそうな。

築地の競り人から、タンザニアへ

貧しかったが奨学金を受けながら何とか地方国立大学の農学部を卒業した。

大学卒業後、地方の田舎から東京築地市場の切り花の競り人として働いた。市場が好きだからという理由で単純に決めた仕事だった。
とある休日、空港へ飛行機を見に行った。鉄の塊が空を飛ぶ姿を初めて間近にし、猛烈に感動し「乗りたい」衝動につき動かされた。当時、飛行機に乗れるお金など持っていなかったから、「タダで飛行機に乗れる職業に就こう!」と思いつき、築地市場を1年で退職。飛行機のパイロットに応募しようとしたが身長が全く足りず(160cm)、あえなく断念。

そのときに見つけたのが、「JICA青年海外協力隊(※1)」だった。内定が決まった後の派遣先は「アジア」か「アフリカ」2択の選択だった。「アフリカ」には到底行けないだろうから「アフリカ」を強く志望した。初めての赴任地は「タンザニア」だった。(※1:日本国政府が行う政府開発援助 の一環として、外務省所管の独立行政法人国際協力機構 が実施する海外ボランティア派遣制度。wikipediaより)

タンザニアでは子供の飢えを救うプロジェクトに従事し、大豆、さやいんげん、マンゴー等の農業技術を教える仕事に従事した。食習慣の違いで現地の子供に大豆加工品を中々受け入れてもらえず、空腹なのに誰も口にしてくれなかった様な失敗も多々あったそうな。

赴任中にお腹を下したり、マラリアにもかかったりと、アフリカの洗礼は一通り受けた。でもこの仕事の面白さに初めて気づかされ、あっという間に赴任期間が過ぎた。

約2年間の任期を終え、タンザニアから地元に戻った。個人経営の会社に入社したが仕事が上手くいかず鬱っぽい症状になったときもあった。
時を経て知り合いの紹介で出会った母親と結婚。公務員で堅実だった母に養ってもらえると思ったのか父は働いていた会社を退職した。

お花屋さん開業からケニアへ

会社退職後、父は「フローラアフリカ」という花屋さんを開業することにした。2年ほど花屋さんを経営していたが、常に赤字で全くうまくいかなかった。
その時期、JICAの知り合いからアフリカのケニアで農業に携わる専門家を探していると、父に声が掛かった。
父は、アフリカでまた挑戦したいという思いが強くなった。そのとき兄は5歳、私は3歳で幼子を持つ母だったが、「行ってらっしゃい」と快く父のケニア行きに背中を押した。「日本で不運な人生ばかり送ってきた人だから自分のやりたいことを応援してあげたい」と母は思っていたそうな。
父は花屋を畳み、日本に妻子を残し、ケニアへ飛び立った。

父のケニア赴任から2年後、私は5歳で初めてケニアの地に足を踏み入れた。1988年のこと。
到着するまでの経由地パキスタン・カラチの空港では乗継の際、銃を持った警備がジロジロ無表情でこちらを見てきた。「何かやらかしたら討たれる」と子供心ながらに恐怖心を抱いた。

やっとの思いでケニアに着いたらボコボコの赤土の上を車が走り、車酔いはするし、頭を色んなところにぶつけた。日本では見たことのないカメレオン、でかい蟻、カラフルな虫、ふらついている野犬が怖すぎた。公衆トイレもないしトイレはいつも我慢。我慢できないときは青空トイレで用を足した。街中には自分と同じ歳位のストリートチルドレンがいて常に手を出されてお金を要求された。サファリではライオンがヌー(ウシ科)を捕まえて食べている姿を目撃した。
この国では強い者しか生き残れないという強烈な印象を受けた。

その後、数年に一度は母、兄、私はケニアへ訪れた。父は一緒に働いている仲間を紹介してくれたり仕事場の農園へよく連れて行ってくれた。ケニアの人と働いている父の姿は心から楽しそうだった。

ケニアに30年間赴任し父はマラリアに何度もかかり、銀行強盗にも数度あったり、家の近くの大使館が爆破されたり、当たり前かの様にしょっちゅう事件が起きていた。
自分の身に起こったことは「大変ものがたり」として面白く話してくれた。
銀行強盗にあったときは、「すぐ床に寝そべることが大切。ズボンのポケットの中をあさられても、とにかくじっとして動かないこと。持っている金はすぐに渡すこと。いつ撃たれるかわからないから」と教えてくれた。
いつでもすぐに逃げられるように、家の中でも外でも常にスニーカーを履いていた。こういうエピソードが山ほどある。

危ない目に何度も遭っているから、突然父がこの世からいなくなることもある、と私は小さいときから割と覚悟はしていた。

父の最期

ステージ4の末期大腸ガンが見つかったのは亡くなる半年前のことだった。体調を崩して急遽ケニアから日本へ緊急帰国した。検査すると、大腸から他の部位へ既にガンが進行していて抗がん剤治療もできないほど、身体が弱っていて手術も出来ない位、手遅れだった。
最後はホスピスで療養した。

亡くなる直前までガンの痛みと毎日闘っていた。モルヒネを打つと楽になった様だが痛みが酷いときは意識朦朧として、日本語が話せなくなり、スワヒリ語と英語しか話せなくなった。会話が成り立たず、医師や看護師さんを随分困らせた。
ホスピスでケニア事務所の同僚とテレビ電話で会話したときが一番楽しそうだった。

アフリカの水を飲んだ者はアフリカにまたもどってくる

父が教えてくれたことわざだ。

父は日本で就いた仕事はどれもうまくいっていない。「自分の向いていない仕事に就くと本当に辛い。」とよく言っていた。
飛行機にタダ乗りするために出会ったケニアだが、その地でようやく自分の居場所を見つけ、ずいぶん救われたという。
「もう自分の人生に悔いなし。いつでも死ねる」と言って死ねたことは良かったんだと心から思う。残された身としてはまだ生きて欲しかったが。

最期までケニアの魅力に取り憑かれていた父。

亡くなったあとも、父の魂はケニアの大地に戻り、生き続けていると思う。

知らんけど。

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