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Sebastião Salgado、アナログの波動

注>この記事は2015年に自己のブログ『変容する世界』にアップロードしたものの再録ですが、一部手を加えてあります。

<再録開始>

もうしばらく前のことになってしまったが、5月末にベルリンを訪問した際におりから開催中のSebastião Salgado展を参観した。

むしろそれこそがわたしにとっては今回のベルリン行のメインテーマといってもよかった。ちなみにこれまでSalgado作品は写真集とPC上の紹介のみで展覧会は初めてであった。
http://www.berlin.de/ausstellungen/fotoausstellungen/3834964-2745254-sebastio-salgado-genesis.html

展覧会は、おそらく写真を学んでいる学生と思われる若い人々を中心に盛況であった。しかしわたしにとっては感嘆と失望(あるいは疑念)のアンビバレントな印象の心理的整理がつかずに今まで来てしまった。

『Genesis』 (創世記)を中心とした展示内容ゆえそのほとんどはデジタルで撮影されたものだ。SalgadoについてはLeica Rの撮影者として興味を持ち始めたのだが『Genesis』以降の機材のデジタル化に対しては写真集などで見る限り何の違和感ももたなかったのだ。



さてアナログとデジタルのイメージの最も大きい落差とは何だろうか?
2015年現在でいえば高画素なフルフレームセンサーにより描き出されるイメージのアナログ時代の中判に匹敵する高精細感であろうか。

ちなみにSalgadoが使用する機材はCanon EOS 1Dシリーズのようである。
まずこれに納得がいかない。この器材はAFの食いつきがいいのでスポーツ関連、野鳥や野生動物撮影のプロ御用達カメラであろう。

『Genesis』ではとくに風景が重要なモチーフとなっているはずなのになぜEOS 1Dなのか?
おそらくはスポンサー契約などとの関連がありそうだが、以下のCanon欧州の記事によれば『Genesis』で使用したのは2008年以降はEOS-1Ds Mark III である。しかしたった21MPの35ミリ版センサーでは展覧会用に大きく伸ばした画面では破綻がでよう。

For the Genesis project Sebastião Salgado used medium format cameras but since 2008 he has been using Canon’s EOS-1Ds Mark III, adapted so he sees a 645 frame.
http://cpn.canon-europe.com/content/interviews/salgado_genesis.do?page=3

そして結果的に展覧会にて目にした作品は細部が甘いものばかりであった。
写真集やPC画面上では極めてシャープに見えるイメージもプリントされた作品ではやはり甘い。

たとえば画面いっぱいにペンギンが群れるあの有名な作品。パンフォーカスで隅々までシャープと見える作品だが、これも細部は甘い。

この失望感が強くどうにも後味が悪い展覧会であった。

しかし、と後で考えてみた。

高精細感が作品の価値を測るうえでどれほどの重要性を占めているだろうか?
具体的には、Salgadoの作品に高精細感は必要だろうか、ということだ。
作家自身が納得して展示した作品故にそれをそのまま受け止めるのが鑑賞者のあるべき態度であろう。

しかしそれにしてもである。

あとからふと考えたのは、Salgadoはいかにもデジタル臭い画質を避けアナログに近いイメージを選択した、あるいは画像に修正を加えアナログ風の味を出した、のではないか、ということだった。いわば「アナログの波動」といったものを感じるのだ。

作家それぞれの立場や思想があるわけで、Salgadoにとっては長年親しんだアナログのイメージにこだわりがあった、ということか。
いずれにせよそれは憶測に過ぎない。

帰宅後、懸案であったWim Wendersが製作監督したSalgadoについての映画『Das Salz der Erde』のDVDを購入して鑑賞してみた。

これはSalgadoの遍歴と現況、抱負や理想を撮影する光景とインタヴューなどで構成した作家の全貌を捉えようとする試みだった。

わが国では『セバスチャン・サルガド 地球へのラブレター』などという奇妙なタイトルで8月に公開される予定なそうな。

たしかにWenders監督が映画の中で「Liebeserklärung für die Erde」と語っている。それを直訳すれば「地球への愛の告白」となるべきだが婦女子受けがするように意訳したのであろうか?いい大人には足を運びにくいタイトルだ。

『Das Salz der Erde』をそのまま「地の塩」と訳したままの方がよかったと思う。それは『Genesis』 (創世記)によく対応する聖書の言葉であるからだ。

何があるいは誰が「地の塩」なのだろうか?
Salgadoが写し取ったアマゾンやニューギニアおよびアフリカや極北の原住民であろうし、また撮影者を監督はそう見立てたのかもしれない。

すでに引用したCanon欧州の記事の続きには以下のような部分で締めくくられていた。

His advice to young documentary photographers is, predictably, not technical: “You should have a good knowledge of history, of geopolitics, of sociology and anthropology to understand the society that we’re part of and to understand yourself and where you’re from in order to make choices. A lack of this knowledge will be much more limiting than any technical ability.”

これはSalgado自身による自己の写真撮影にスタンスの説明にもなっている。

「あなたがその一部である社会をまたあなた自身を理解するために、またあなたがどこから来たのかを選択するために、歴史、地政学、社会学そして人類学の知識を持ちなさい。これらの知識の欠如は技術的な能力よりあなたをより多く制限するでしょう。」

学生時代は左翼過激派であったSalgadoには写真撮影に先んじて優先すべきことがあるようである。
『Genesis』を経過したSalgadoにとってそれは環境保護ということらしい。

はたしてそれが写真撮影を生業とするものにとっての正しい道かどうかは知らぬ。
ただSalgadoにとってはそうすべき理由と哲学があるということらしい。

わたし自身に鑑みてそのこと自体はあまり参考にはならないが、Salgadoの為した仕事については万感の共鳴を覚えるし、そして展覧会に展示された作品の細部が甘かろうがそれは些細な問題であると思えるようになったのである。

撮影したデジタル画像処理についてSalgadoは以下のようにCanonの記事で述べている。

「デジタルで撮影したイメージをスクリーンやPCではチェックせず、コンタクトシートにプリントしたものでまずチェックし、必要なら再編集し、よいと選択すればそれを30x40cmの大きさにプリントして再チェックをする。さらに必要とあればネガテイヴも造る。」
なぜなら
「The negatives are so perfect that we can create a digital negative from the physical one and start the whole process again」 
ということらしい。

わたしのかってな憶測ではなかった。

これがSalgadoの作品から感じるアナログの波動の秘密であった。

<再録終了>


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