美とは権威
そういえば、少し前に東京都の防潮扉にバンクシー作らしきネズミのグラフィティが発見され、都がそれを移動させ都庁で公開し、バンクシー側にあれは本物ですか?と確認をした。
といったことがありましたが、率直に「ダサいなー」と見ていました。
本来、器物損壊であり決して喜ぶべき場面ではないのに、
「あのバンクシーさんの絵が!!」と喜んでおり、浮き足だった報道が目立ちました。
「あの」バンクシーなので、人の素直な気持ちとして理解できます。
でもつくづく「美とは権威」だなと思いました。
「芸術」「アート」「美術」言葉は様々ですが、「美しい」ものを見たときにどのような感情になるでしょうか?
もう少し砕けて言えば、「めっちゃイケメン・美人」を目の前にしたとき、緊張したり照れたりドキドキしたり汗ばんだり紅潮したり、何か平静ではいられないものだと思います。
私は「美」とは、「自分より何かのレベルが上」な存在なんだと思っています、審美眼や知識などではなく人間が本能的に感じる「強そう」「弱そう」「ヤバそう」のように自分の日常を基準に、対象が持つ美しさから人は影響を受けるものなんだと。
橋本治さん著、「人はなぜ「美しい」がわかるのか」にこんな一文が。
なぜ「美術品は高価であってもいい」などという前提が生まれたのでしょうか?それは、美術品や宝飾品のそもそもが、「値段は高くてもかまわない、自分の勢威を誇示するためなら、高ければ高いほどいい」と言う、王侯貴族のために作られたものだからです
また、同じ著書の中だったはずなのですが、見つけることができずざっくりですが
“自分の所有している美術品などは、特別な来客の際に「貴方だから特別にご覧にいれますよ」的な、簡単に世に出すものではなく、分かる人同士・特別扱いしたい人への特別な楽しみだった”
的なことが書いてあったはずです。
デザインも「美」を扱います。
ここまで書いたような美とは違うかもしれませんが、
デザインの受け手との距離が適切なビジュアルはどのようなものなのか。
どのレベルに見てもらうのか、そのレベル設定は受け手には適切な距離(デザインのテイスト)なのか、近すぎると特定の人にしか興味を持ってもらえない、遠すぎるとメッセージが弱まる。
デザインも芸術作品も最終的には「好きか嫌いか」ですが、
デザインには「ゴール」が設定されています、
その「好き」は誰にとっての「好き」なのか、
常に大切に考えてデザインを作る・見る必要があります。
グラフィティアートとはそもそもが、社会から見向きもされない人の叫びや考えを、ルールを破ることで訴える行為という一面が強いと見ていて、ベースにあるのは反骨精神だと思っています。(落書きで終わるのか、アートとなるのか、ですね)
バンクシーの作品は保護されてしかるべきアーティストですが、体制側である東京都が迎合する形に見えた一連の流れは、嘘でも「怒っています!」と言ってもらわないと、適切さを欠きアートとしての構図が成り立たず、都庁で展示されるなんて身も蓋もない辱しめなのではと思った次第です。
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