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まだ生きてる

元気じゃなくてもいい、順調じゃなくてもいい。ただ生きてさえいてくれれば。そう切に願う大切な友人が私には何人かいる。彼らの無事を思うとき私は修道女のような心持ちになる。

この週末はそんな友人のうちのひとりが門司港にまで会いに来てくれた。久しぶりにあった彼の表情はかつてなく穏やかで、今は安定した時間を過ごしていることがみてとれた。彼とは10年来の付き合いである。20代の頃の私達は生きたくはないが死ぬこともできない、やり切れなさをぶつけるあてもなく共に夜を徘徊していたというのに。

今回、久しぶりに彼とゆっくり話してわかったのは、彼は死を諦めたということだった。20を超えて生きているとさえ思っていなかった彼が30を迎えたとき、ふと諦念のようなものを覚えたという。生きつづける覚悟のようなもの。そんな彼はいま小説を書きながら平穏に暮らしている。小説を書くという行為が彼を生かしている。

話は変わって、私は中学生の頃、かの有名な芥川龍之介の『或る旧友へ送る手記』を読んでひどく共鳴してしまった。『生きるために生きることの哀れさ』『将来に対する唯ぼんやりとした不安』自分が抱えている闇を言語化し実践している先人に出会えた衝撃は深く、幼くて浅はかだった私は何故かそのとき自分の寿命を32に設定した。

けれども私は30になり死ぬ気配もなく、憂鬱な2021年をだらだらと生きている。30歳以降の自分のビジョンがみえずに彷徨っているのは、もしかしたら幼い頃に自分でかけた呪縛にかかったままだからなのかもしれないと思った。

10代の頃は30代がこんなにも近いと思わなかった。30にもなれば自分の人生のなんてとっくにやりきってると思っていた。甘かった。32の誕生日を迎えるころには私にも諦念が訪れるだろうか。人生と折り合いがつくだろうか。

どっちでもいいけど、もう辛いお別れは嫌だな。

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