同棲の終わり、ペットの忌引
同棲の終わり、ときいて思い出すのは西日が射す空っぽになった部屋に2人で横たわっていときのこと。その頃の私にはすでに泣き叫ぶ体力なんて残っていなくて、元恋人の胸に顔をうずめて静かに涙を流すだけだった。ずっと私を安心させてきたこの匂い。
冬の日の入りは早く、部屋がだんだんと暗くなる。もうこの家には照明すら残っていなかった。夜の気配が漂う玄関先で、これまでもそうしてきたように、彼にハグとキスをして私はひとあし先に"家"だったものを後にした。
元恋人との関係性の破局は間違いなくこれまで経験したなによりも耐え難いものだった。私の恋人であり親友であり兄弟であり常に私の味方であったひと。そんな人を失うことは青天の霹靂だった。否、わかってはいた。私達の関係性がそう長くは続かないこと。それでも、なんとか一緒に居続ける方法を互いに探して私達はボロボロになっていった。
精神的に一番落ち込んでいるときに、整理整頓やら引っ越しの準備やらをしなければならないことは苦行だった。不動産屋さんで営業マンの兄ちゃんが何の屈託もなく引っ越し理由を訊いてくることに殺意さえ覚えた。2DKの部屋からワンルームへ引っ越す、その辺りの細やかな事情はどうか訊かずに察してくれ。
そして、私が何より傷ついたのは周囲の反応だった。どうしても同棲の破局というものは離婚に比べてアマチュア的に受け取られる。「籍を入れてなくてよかったね」という言葉を何度かけられたことだろう。本人達は励ましのつもりだったと思うが、それでもやはりその言葉はどこか心にしこりを残した。
時間で比較するのが正しいことではないとは分かっている。しかし、それでも8年の同棲生活の終わりが、例えば数年の結婚生活の終わりよりも軽いもののように思われていることは悔しかった。私達は私達なりに丁寧に関係性を築いてきたはずだ。
可愛がっていた姪っ子と、娘のように可愛がってもらった義母、夏休みの度にお世話になっていた山陰の義祖父母には曖昧な立場上なんだか気が引けて最後にご挨拶ができなかったことも悲しかった。籍を入れない選択をしたのは私だけれども、こんなことになるのなら意味のある終結に向けて籍を入れておけば良かった。
先日、再会した友人は18年連れ添った飼い犬を亡くしたところだった。職業訓練校に通う彼女は学校を休めず、正式な忌引きを取るために「遠い親戚を殺した」と自嘲気味に笑っていた。18年という時間の中で彼女と飼い犬が築きあげた関係性のことを想った。家族や親戚の忌引きなら許されて、ペットの忌引きは許されない世の中は優しくない。
正式な喪失ってなんだ。喪失の体験は個人的なものであり、その重さは相手ましてや社会的な関係性では測れない。家族も恋人もペットも友人も同性のパートナーも内縁の関係も失ったときの苦しみに差異はない。それが、離別であれ死別であれ喪失感は誰にも等しく訪れる。
人に語ったりすることで喪失のしんどさは一瞬和らいだりするものの、結局、本質的なところで喪失感とは誰とも分かち合えず独りで背負っていくしかないのだと思う。歳を重ねるごとに喪失体験の回数は増えるものの、喪失への耐性は一向にできる気配すらしない。
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